q、古びし寝台《ねだい》、曇りし姿見、水|溜《たま》れる手洗鉢《てあらひばち》なぞ、種々《さま/″\》の家具雑然たる一室の様、魔術の如くに現《あらは》れ候。室《へや》は屋根裏と覚しく、天井低くして壁は黒ずみたれど、彼方《かなた》此方《こなた》に脱捨《ぬぎす》てたる汚れし寝衣《ねまき》、股引《もゝひき》、古足袋《ふるたび》なぞに、思ひしよりは居心《ゐごゝろ》好き住家《すみか》と見え候。されど、そは諸君が寝藁《ねわら》打乱れたる犬小屋、若しくは糞《ふん》にまみれし鳥の巣を覗見《のぞきみ》たる時感じ給ふ心地好さに御座候。
眺め廻す中《うち》に、女は早や帽子を脱《と》り、上衣《うはぎ》を脱ぎ、白く短き下衣《シユミーズ》一ツになりて、余が傍《かたへ》なる椅子に腰掛け、巻煙草を喫し始め候。
余は深く腕を組みて、考古学者が沙漠に立つ埃及《エヂプト》の怪像《スフインクス》を打仰ぐが如く、黙然として其の姿を打目戍《うちまも》り候。
見よ。彼女が靴足袋《くつたび》したる両足をば膝の上までも現《あらは》し、其の片足を片膝の上に組み載せ、下衣《したぎ》の胸ひろく、乳を見せたる半身を後《うしろ》に反《そら》し、あらはなる腕を上げて両手に後頭部を支へ、顔を仰向けて煙を天井に吹く様《さま》。これ神を恐れず、人を恐れず、諸有《あらゆ》る世の美徳を罵り尽せし、惨酷なる、将《は》た、勇敢なる、反抗と汚辱との石像に非ずして何ぞ。彼女が白粉と紅《べに》と入毛《いれげ》と擬造《まがひ》の宝石とを以て、破壊の「時」と戦へる其の面《おもて》は孤城落日の悲壮美を示さずや。其《そ》が重き瞼の下に、眠れりとも見えず、覚めたりとも見えぬ眼の色は、瘴煙毒霧《しやうえんどくむ》を吐く大沢《だいたく》の水の面にも譬《たと》ふべきか。デカダンス派の父なるボードレールが、
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〔Quand vers toi mes de'sirs partent en caravan,〕
〔Tes yeux sont la citerne ou` boivent mes ennuis.〕
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「わが欲情、隊商《カラバン》の如く汝《な》が方《かた》に向ふ時、汝《なれ》が眼は病める我が疲れし心を潤す用水の水なり。」と云ひ、又、
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〔Tes yeux, ou` rien ne se re've`le〕
De doux ni d'amer,
〔Sont deux bijoux froids ou` se mele〕
L'or avex le fer.
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「嬉し悲しの色さへ見せぬ汝《なれ》が眼は、鉄と黄金《こがね》を混合《まじへ》たる冷き宝石の如し。」と云ひたるも、この種の女の眼にはあらざるか。
余は已《すで》に小春の可憐《かれん》、椿姫マルグリツトの幽愁のみには満足致し得ず候。彼等は余りに弱し。彼等は習慣と道徳の雨に散りたる一片の花にして、刑罰と懲戒の暴風に萎《しを》れず、死と破滅の空に向ひて、悪の蔓を延《のば》し、罪の葉を広ぐる毒草の気概を欠き居り候。
あゝ悪の女王よ。余は其の冷き血、暗き酒倉の底に酒の滴るが如く鳴りひゞく胸の上に、わが悩める額を押当《おしあつ》る時、恋人の愛にはあらで、姉妹の親み、慈母の庇護を感じ申候。
放蕩と死とは連《つらな》る鎖に候。何時も変りなき余が愚《ぐ》をお笑ひ下され度く候。余は昨夜一夜《いちや》をこの娼帰《しやうふ》と共に、「屍《しかばね》の屍に添ひて横《よこたは》る」が如く眠り申候。
底本:「日本の名随筆72 夜」作品社
1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
1999(平成11)年4月30日第7刷発行
底本の親本:「荷風全集 第三巻」岩波書店
1963(昭和38)年8月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月3日作成
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