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大正九年の秋であった。一日《いちじつ》深川の高橋から行徳《ぎょうとく》へ通う小さな汚い乗合《のりあい》のモーター船に乗って、浦安《うらやす》の海村に遊んだことがある。小舷《こべり》を打つ水の音が俄に耳立ち、船もまた動揺し出したので、船窓から外を見たが、窓際の席には人がいるのみならず、その硝子板《ガラスいた》は汚れきって磨《すり》硝子のように曇っている。わたくしは立って出入《でいり》の戸口へ顔を出した。
船はいつか小名木川《おなぎがわ》の堀割を出《い》で、渺茫《びょうぼう》たる大河の上に泛《うか》んでいる。対岸は土地がいかにも低いらしく、生茂《おいしげ》る蘆《あし》より外には、樹木も屋根も電柱も見えない。此方《こなた》の岸から水の真中へかけて、草も木もない黄色の禿山《はげやま》が、曇った空に聳《そび》えて眺望を遮《さえぎ》っている。今まで荷船《にぶね》の輻湊《ふくそう》した狭い堀割の光景に馴らされていた眼には、突然濁った黄いろの河水が、岸の見えない低地の蘆をしたしつつ、満々として四方にひろがっているのを見ると、どうやら水害の惨状を望むが如く、俄に荒凉の気味が身に迫るのを覚えた。わたくしは東京の附近にこんな人跡の絶えた処があるのかと怪しみながら、乗合いの蜆売《しじみうり》に問うてここに始めて放水路の水が中川の旧流を合せ、近く海に入ることを説き聞かされた。しかしその時には船堀《ふなぼり》や葛西村《かさいむら》の長橋もまだ目にとまらなかった。
わたくしの頽廃した健康と、日々の雑務とは、その後《ご》十余年、重ねてこの水郷《すいごう》に遊ぶことを妨げていたが、昭和改元の後、五年の冬さえまた早く尽きようとするころであった。或日、深川の町はずれを処定めず、やがて扇橋《おうぎばし》のあたりから釜屋堀《かまやぼり》の岸づたいに歩みを運ぶ中《うち》、わたくしはふと路傍の朽廃《きゅうはい》した小祠《しょうし》の前に一片の断碑を見た。碑には女木塚《おなぎづか》として、その下に、
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秋に添《そう》て行《ゆか》ばや末は小松川《こまつがわ》 芭蕉翁
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と刻してあった。わたくしはこれを読むと共に、俄にその言うがごとく、秋のながれに添うて小松川まで歩いて見ようと思い、堀割の岸づたいに、道の行くがまま歩みつづけると、忽
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