麦酒《ビール》一杯のみて後《のち》娘はやがてわれを誘《いざな》ひ公園の人込の中をば先に立ちて歩む。その行先いづこぞと思へば今区役所の建てる通《とおり》の中ほどにて、町家《まちや》の間に立ちたる小さき寺の門なりけり。門の中《うち》に入るまで娘は絶えず身のまはりに気をくばりてゐたりしが初めて心おちつきたるさまになりてひしとわが身に寄添ひて手をとり、そのまま案内も請《こ》はず勝手口《かってぐち》を廻りて庫裡《くり》の裏手に出づ。と見れば葡萄棚ありてあたり薄暗し。娘は奥まりたる離座敷《はなれざしき》とも覚しき一間《ひとま》の障子外より押開きてづかづかと内に上《あが》り破れし襖《ふすま》より夜のもの取出《とりいだ》して煤《すす》けたる畳の上に敷きのべたり。
あまりといへば事の意外なるにわれはこの精舎《しょうじゃ》のいかなる訳ありてかかる浅間しき女の隠家《かくれが》とはなれるにや。問はまく思ふ心はありながら、また寸時も早く逃出《のがれい》でんと胸のみ轟かすほどに、やがて女はわが身を送出でて再び葡萄棚の蔭を過ぐる時|熟《みの》れる一総《ひとふさ》の取分けて低く垂れたるを見、栗鼠《りす》のやうなる声立ててわが袖を捉へ忽ちわが背に攀《よ》ぢつ。片腕あらはに高くさしのべ力にまかせて葡萄の総を引けば、棚おそろしくゆれ動きて、虻《あぶ》あまた飛出《とびいづ》る葉越しの秋の空、薄く曇りたれば早やたそがるるかと思はれき。本堂の方《かた》に木魚《もくぎょ》叩く音いとも懶《ものう》し。
われその頃より友人に教へられてかのモオパッサンが短篇小説読み始むるほどに、曇りし日の葡萄棚のさま、何《なに》となく彼《か》の文豪が好んでものする巴里《パリー》の好事《アワンチュール》の中《うち》にもあり気《げ》なる心地せられて遂に忘れぬ事の一つとはなりけり。怪しきかの寺なほありや否や。
[#地から2字上げ]大正七年八月
底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング