せんよ。」
「まあ、君、何冊あるか調べてから値をつけたまえ。」
「揃っていても駄目ですよ。全くのはなし、他のお客様ならお断りするんですが……。」
「一体いくらだよ。そんな意地の悪いことを言わないで。」
「そうですね。まア弐円がせいぜいという処でしょう。」
わたしと唖々子とは、最初拾円と大きく切出して置けば結局半分より安くなることはあるまいと思っていたので、暫く顔を見合せたまま何とも言う事ができなかった。殊に唖々子はこの夜この事を敢てするに至るまでの良心の苦痛と、途中人目を憚《はばか》りつつ背負って来たその労力とが、合せて僅《わずか》弐円にしかならないと聞いては、がっかりするのも無理はない。口に啣《くわ》えた巻煙草のパイレートに火をつけることも忘れていたが、良久《やや》あって、
「おい。お願だからもうすこし貸してくれ。」
「この次、きっと入れ合せをするよ。」とわたしもともども歎願した。
しかし『通鑑綱目』は二人がそれから半時間あまりも口を揃えて番頭を攻めつけたにかかわらず、結局わずか五拾銭値上げをされたに過ぎなかった。
「これっぱかりじゃ、どうにもならない。」
「これじゃ新宿へ行っても駄目だ。」
質屋の店を出て、二人は嘆息しながら表通を招魂社《しょうこんしゃ》の鳥居の方へと歩いて行った。万源という料理屋の二階から酔客の放歌が聞える。二人は何というわけとも知らず、その方へと歩み寄ったが、その時わたしはふと気がついて唖々子の袖を引いた。万源の向側なる芸者家新道の曲角《まがりかど》に煙草屋がある。主人は近辺の差配で金も貸しているという。わたしの家をよく知っているから、五円や拾円貸さないことはあるまい。しかし何と言って借りたらいいものだろう。
すると唖々子は暫く黙考していたが、「友達が吉原から馬を引いて来た。友達がかわいそうだから、急場のところ、何とか都合をしてくれと頼んで見たまえ。」
「そうか。やって見よう。」とわたしは唖々子をその場に待たせて、まず冠っていた鳥打帽《とりうちぼう》を懐中にかくし、いかにも狼狽した風で、煙草屋の店先へ駈付けるが否や、
「今晩は。急に御願いがあるんですが。」
帽子をかくしたのは友達がわたしの家へ馬をつれて来たので、わたしは家人《かじん》の手前を憚り、取るものも取り敢ず救を求めに来た如く見せかけようとしたのである。
事は直に成った。二
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