とだ。『資治通鑑《しじつがん》』が一人でかつげると思うか。」
「たいして貸しそうもないぜ。『通鑑』も『※[#「覽」の「見」に代えて「手」、第4水準2−13−56]要《らんよう》』の方がいいのだろう。」
「これでも一晩位あそべるだろう。」
 路傍にしゃがんで休みながらこんな話をした。その頃われわれが漢籍の種別とその価格とについて少しく知る所のあったのは、わたしと倶《とも》に支那語を学んでいた島田のおかげである。ここに少しく彼について言わなければならない。島田、名は翰《かん》、自ら元章と字《あざな》していた。世に知られた宿儒|篁村《こうそん》先生の次男で、われわれとは小学校からの友である。翰は一時神童といわれていた。われわれが漢文の教科書として『文章軌範』を読んでいた頃、翰は夙《つと》に唐宋諸家の中でも殊に王荊公《おうけいこう》の文を諳《そらん》じていたが、性質|驕悍《きょうかん》にして校則を守らず、漢文の外他の学課は悉く棄てて顧《かえりみ》ないので、試業の度ごとに落第をした結果、遂に学校でも持てあまして卒業証書を授与した。強面《こわもて》に中学校を出たのは翰とわたしだけであろう。わたしの事はここに言わない。翰は平生手紙をかくにも、むずかしい漢文を用いて、同輩を困らせては喜んでいたが、それは他日|大《おおい》にわたしを裨益《ひえき》する所となった。わたしは西洋文学の研究に倦《う》んだ折々、目を支那文学に移し、殊に清初詩家の随筆|書牘《しょとく》なぞを読もうとした時、さほどに苦しまずしてその意を解することを得たのは今は既に世になき翰の賚《たまもの》であると言わねばならない。
 唖々子が『通鑑綱目』を持出した頃、翰もまたその家から折々書物を持出した。しかし翰の持出したものは、唖々子の持出した『通鑑』や『名所図会《めいしょずえ》』、またわたしの持出した『群書類従』、『史記評林』、山陽の『外史』『政記』のたぐいとは異って、皆珍書であったそうである。先哲諸家の手写した抄本の中には容易に得がたいものもあったとやら。後に聞けば島田家では蔵書の紛失に心づいてから市中の書肆《しょし》へ手を廻し絶えず買戻しをしていたというはなしである。
 森先生の渋江抽斎の伝に、その子優善が持出した蔵書の一部が後年島田篁村翁の書庫に収められていた事が記されてある。もし翰が持出した珍書の中にむかし弘前《ひろ
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