》が東京名所絵にも描かれてある。図を見るに川面《かわづら》籠《こむ》る朝霧に両国橋|薄墨《うすずみ》にかすみ渡りたる此方《こなた》の岸に、幹太き一樹の柳少しく斜《ななめ》になりて立つ。その木蔭《こかげ》に縞《しま》の着流《きながし》の男一人手拭を肩にし後向《うしろむ》きに水の流れを眺めている。閑雅《かんが》の趣|自《おのずか》ら画面に溢れ何となく猪牙舟《ちょきぶね》の艪声《ろせい》と鴎《かもめ》の鳴く音《ね》さえ聞き得るような心地《ここち》がする。かの柳はいつの頃枯れ朽ちたのであろう。今は河岸《かし》の様子も変り小流《こながれ》も埋立てられてしまったので元柳橋の跡も尋ねにくい。
半蔵御門《はんぞうごもん》より外桜田《そとさくらだ》の堀あるいはまた日比谷馬場先和田倉御門外《ひびやばばさきわだくらごもんそと》へかけての堀端《ほりばた》には一斉に柳が植《うわ》っていて処々に水撒《みずまき》の車が片寄せてある。この柳は恐らく明治になってから植えたものであろう。広重が東都名勝の錦絵の中《うち》外桜田の景を看《み》ても堀端の往来際《おうらいぎわ》には一本の柳とても描かれてはいない。土手を下りた水際《みずぎわ》の柳の井戸の所に唯|一株《ひとかぶ》の柳があるばかりである。余の卑見《ひけん》を以てすれば、水を隔《へだ》てて対岸なる古城の石垣と老松を望まんには、此方の堤に柳あるは眺望を遮《さえぎ》りまた眼界を狭くするの嫌《きらい》あるが故にむしろなきに如《し》くはない。いわんやかかる処に西洋風の楓《かえで》の如きを植うるにおいてをや。
東京市は頻《しきり》に西洋都市の外観に倣《なら》わんと欲して近頃この種の楓または橡《とち》の類《たぐい》を各区の路傍に植付けたが、その最も不調和なるは赤坂《あかさか》紀《き》の国坂《くにざか》の往来に越す処はあるまい。赤坂離宮のいかにも御所らしく京都らしく見える筋塀《すじべい》に対して異国種《いこくだね》の楓の並木は何たる突飛《とっぴ》ぞや。山の手の殊に堀近き処の往来には並木の用は更にない。並木の緑なくとも山の手一帯には何処という事なく樹木が目につく。並木は繁華の下町において最も効能がある。銀座駒形人形町通《ぎんざこまがたにんぎょうちょうどおり》の柳の木《こ》かげに夏の夜《よ》の露店|賑《にぎわ》う有様は、煽風器《せんぷうき》なくとも天然の凉風自在に吹通《ふきかよ》う星の下《した》なる一大|勧工場《かんこうば》にひとしいではないか。
都下の樹木にして以上の外《ほか》なお有名なるは青山練兵場内のナンジャモンジャの木、本郷西片町《ほんごうにしかたまち》阿部伯爵家の椎《しい》、同区|弓町《ゆみちょう》の大樟《おおくすのき》、芝三田《しばみた》蜂須賀《はちすか》侯爵邸の椎なぞがある。煩《わずらわ》しければ一々述べず。
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第四 地図
蝙蝠傘《こうもりがさ》を杖に日和下駄《ひよりげた》を曳摺《ひきず》りながら市中《しちゅう》を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板《かえいばん》の江戸切図《えどきりず》を懐中《ふところ》にする。これは何も今時出版する石版摺《せきばんずり》の東京地図を嫌って殊更《ことさら》昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目《ま》のあたり比較対照する事ができるからである。
例えば牛込弁天町辺《うしごめべんてんちょうへん》は道路取りひろげのため近頃全く面目を異《こと》にしたが、その裏通《うらどおり》なる小流《こながれ》に今なおその名を残す根来橋《ねごろばし》という名前なぞから、これを江戸切図に引合せて、私は歩きながらこの辺《へん》に根来組同心《ねごろぐみどうしん》の屋敷のあった事を知る時なぞ、歴史上の大発見でもしたように訳もなくむやみと嬉しくなるのである。かような馬鹿馬鹿しい無益な興味の外《ほか》に、また一ツ昔の地図の便利な事は雪月花《せつげつか》の名所や神社仏閣の位置をば殊更目につきやすいように色摺《いろずり》にしてあるのみならず時としては案内記のようにこの処より何々まで凡幾町《およそいくちょう》植木屋多しなぞと説明が加えてある事である。凡そ東京の地図にして精密正確なるは陸地測量部の地図に優《まさ》るものはなかろう。しかしこれを眺めても何らの興味も起らず、風景の如何《いかん》をも更に想像する事が出来ない。土地の高低を示す蚰蜒《げじげじ》の足のような符号と、何万分の一とか何とかいう尺度一点張《ものさしいってんばり》の正確と精密とはかえって当意即妙の自由を失い見る人をして唯《ただ》煩雑の思をなさしめるばかりである。見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き柳原《やなぎわら》の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山《あすかやま》より遠く日光《にっこう》筑波《つくば》の山々を見ることを得れば直《ただち》にこれを雲の彼方《かなた》に描示《えがきしめ》すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味|津々《しんしん》よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遥《はるか》に直感的また印象的の方法に出でたものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治法律教育万般のこと尽《ことごと》くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》の眼力《がんりき》は江戸絵図の如し。更に語《ご》を換《か》ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。
江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ伴侶《はんりょ》となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩《あゆ》み行けば身は自《おのずか》らその時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京|中《じゅう》には何処《いずこ》に行くとも心より恍惚として去るに忍びざるほど美麗なもしくは荘厳な風景建築に出遇《であ》わぬかぎり、いろいろと無理な方法を取りこれによって纔《わずか》に幾分の興味を作出《つくりだ》さねばならぬ。然《しか》らざれば如何に無聊《ぶりょう》なる閑人《かんじん》の身にも現今の束京は全く散歩に堪《た》えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を便《たよ》りにして、例えば銀座の角《かど》のライオンを以て直ちに巴里《パリー》のカッフェーに擬《ぎ》し帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人にはあるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式|偽文明《ぎぶんめい》が森永の西洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩《ともがら》に対しては、東京なる都会の興味は勢《いきおい》尚古的《しょうこてき》退歩的たらざるを得ない。われわれは市《いち》ヶ|谷《や》外濠《そとぼり》の埋立工事を見て、いかにするとも将来の新美観を予測することの出来ない限り、愛惜《あいせき》の情《じょう》は自ら人をしてこの堀に藕花《ぐうか》の馥郁《ふくいく》とした昔を思わしめる。
私は四谷見附《よつやみつけ》を出てから迂曲《うきょく》した外濠の堤《つつみ》の、丁度その曲角《まがりかど》になっている本村町《ほんむらちょう》の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込《うしごめ》を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷|八幡《はちまん》の桜早くも散って、茶《ちゃ》の木《き》稲荷《いなり》の茶の木の生垣《いけがき》伸び茂る頃、濠端《ほりばた》づたいの道すがら、行手《ゆくて》に望む牛込小石川の高台かけて、緑《みどり》滴《したた》る新樹の梢《こずえ》に、ゆらゆらと初夏《しょか》の雲凉し気《げ》に動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこの辺《あたり》を中心にして江戸の狂歌が勃興した天明《てんめい》時代の風流を思起《おもいおこ》すのである。『狂歌|才蔵集《さいぞうしゅう》』夏の巻《まき》にいわずや、
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首夏《しゅか》
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[#地から10字上げ]馬場金埒《ばばきんらち》
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花はみなおろし大根《だいこ》となりぬらし鰹《かつお》に似たる今朝《けさ》の横雲
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新樹
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[#地から10字上げ]紀躬鹿《きのみじか》
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花の山にほひ袋の春過ぎて青葉ばかりとなりにけるかな
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更衣《ころもがえ》
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[#地から10字上げ]地形方丸《じぎょうかたまる》
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夏たちて布子《ぬのこ》の綿はぬきながらたもとにのこる春のはな帋《がみ》
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江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添えしむるものである。
私は小石川なる父の家の門札《もんふだ》に、第四|大区《だいく》第何小区何町何番地と所書《ところがき》のしてあったのを記憶している。東京府が今日の如く十五区六郡に区劃されたのは、丁度私の生れた頃のこと。それまでは十一の大区に分たれていたのである。私は柳北《りゅうほく》の随筆、芳幾《よしいく》の綿絵《にしきえ》、清親《きよちか》の名所絵、これに東京絵図を合せ照してしばしば明治初年の渾沌《こんとん》たる新時代の感覚に触るる事を楽しみとする。
市中《しちゅう》を散歩しつつこの年代の東京絵図を開き見れば諸処《しょしょ》の重立《おもだ》った大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となっている。下谷佐竹《したやさたけ》の屋敷は調練場《ちょうれんば》となり、市ヶ谷と戸塚村《とつかむら》なる尾州侯《びしゅうこう》の藩邸、小石川なる水戸の館第《かんてい》も今日われわれの見る如く陸軍の所轄《しょかつ》となり名高き庭苑も追々に踏み荒されて行く。鉄砲洲《てっぽうず》なる白河楽翁公《しらかわらくおうこう》が御下屋敷《おしもやしき》の浴恩園《よくおんえん》は小石川の後楽園《こうらくえん》と並んで江戸名苑の一に数えられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや寄集《よりあつま》って酒を呑む倶楽部《クラブ》のようなものになってしまった。江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも仏蘭西《フランス》革命史を読むが如き感に打たれるであろう。われわれはそれよりも時としては更に深い感慨に沈められるといってもよい。何故《なにゆえ》なれば、仏蘭西の市民《シトワイヤン》は政変のために軽々しくヴェルサイユの如きルウブルの如き大なる国民的美術的建築物を壊《こぼ》ちはしなかったからである。現代官僚の教育は常に孔孟《こうもう》の教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の水を過《すぎ》る度々「仰高《ぎょうこう》」の二字を掲げた大成殿《たいせいでん》の表門を仰げば、瓦は落ちたるままに雑草も除かず風雨の破壊するがままに任せてある。しかして世人の更にこれを怪しまざるが如きに至っては、われらは唯|唖然《あぜん》たるより外《ほか》はない。
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第五 寺
杖《つえ》のかわりの蝙蝠傘《こうもりがさ》と共に私が市中《しちゅう》散歩の道しるべとなる昔の江戸切絵図《えどきりえず》を開き見れば江戸中には東西南北到る処に夥《おびただ》しく寺院神社の散在していた事がわかる。江戸の都会より諸侯の館邸と武家《ぶけ》の屋敷と神社仏閣を除いたなら残る処の面積は殆どない位《くらい》であろう。明治初年神仏の区別を分明《ぶんめい》にして以来殊には近年に至って市区改正のため仏寺の取払いとなったものは尠《すくな》くない。それにもかかわらず寺院は今なお市中|何処《いずこ》という限りもなく、あるいは坂の上|崖《がけ》の下、川のほとり橋の際《きわ》、到る処にその門と堂の屋根を聳《そび
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