私の境遇はそれとは全く違う。しかしその行為とその感慨とはやや同じであろう。日本《にほん》の現在は文化の爛熟してしまった西洋大陸の社会とはちがって資本の有無《うむ》にかかわらず自分さえやる気になれば為すべき事業は沢山ある。男女|烏合《うごう》の徒《と》を集めて芝居をしてさえもし芸術のためというような名前を付けさえすればそれ相応に看客《かんきゃく》が来る。田舎の中学生の虚栄心を誘出《さそいだ》して投書を募《つの》れば文学雑誌の経営もまた容易である。慈善と教育との美名の下《もと》に弱い家業の芸人をおどしつけて安く出演させ、切符の押売りで興行をすれば濡手《ぬれて》で粟《あわ》の大儲《おおもうけ》も出来る。富豪の人身攻撃から段々に強面《こわもて》の名前を売り出し懐中《ふところ》の暖くなった汐時《しおどき》を見計《みはから》って妙に紳士らしく上品に構えれば、やがて国会議員にもなれる世の中。現在の日本ほど為すべき事の多くしてしかも容易な国は恐らくあるまい。しかしそういう風な世渡りを潔《いさぎよ》しとしないものは宜《よろ》しく自ら譲って退《しりぞ》くより外《ほか》はない。市中の電車に乗って行先《ゆくさき》を急ごうというには乗換場《のりかえば》を過《すぎ》る度《たび》ごとに見得《みえ》も体裁《ていさい》もかまわず人を突き退《の》け我武者羅《がむしゃら》に飛乗る蛮勇《ばんゆう》がなくてはならぬ。自らその蛮勇なしと省《かえり》みたならば徒《いたずら》に空《す》いた電車を待つよりも、泥亀《どろがめ》の歩み遅々《ちち》たれども、自動車の通らない横町《よこちょう》あるいは市区改正の破壊を免《まぬか》れた旧道をてくてくと歩くに如《し》くはない。市中の道を行くには必《かならず》しも市設の電車に乗らねばならぬと極《きま》ったものではない。いささかの遅延を忍べばまだまだ悠々として濶歩《かっぽ》すべき道はいくらもある。それと同じように現代の生活は亜米利加風《アメリカふう》の努力主義を以てせざれば食えないと極ったものでもない。髯《ひげ》を生《はや》し洋服を着てコケを脅《おど》そうという田舎紳士風の野心さえ起さなければ、よしや身に一銭の蓄《たくわえ》なく、友人と称する共謀者、先輩もしくは親分と称する阿諛《あゆ》の目的物なぞ一切|皆無《かいむ》たりとも、なお優游《ゆうゆう》自適の生活を営《いとな》む方法は尠《すくな》くはあるまい。同じ露店の大道商人となるとも自分は髭を生し洋服を着て演舌口調に医学の説明でいかさまの薬を売ろうよりむしろ黙して裏町の縁日《えんにち》にボッタラ焼《やき》をやくか※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉細工《しんこざいく》でもこねるであろう。苦学生に扮装したこの頃の行商人が横風《おうふう》に靴音高くがらりと人の家《うち》の格子戸《こうしど》を明け田舎訛《いなかかま》りの高声《たかごえ》に奥様はおいでかなぞと、ややともすれば強請《ゆすり》がましい凄味《すごみ》な態度を示すに引き比べて昔ながらの脚半《きゃはん》草鞋《わらじ》に菅笠《すげがさ》をかぶり孫太郎虫《まごたろうむし》や水蝋《いぼた》の虫《むし》箱根山《はこねやま》山椒《さんしょ》の魚《うお》、または越中富山《えっちゅうとやま》の千金丹《せんきんたん》と呼ぶ声。秋の夕《ゆうべ》や冬の朝《あした》なぞこの声を聞けば何《なに》とも知れず悲しく淋しい気がするではないか。
されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を探《さぐ》りこれが保存を主張しようという訳でもない。如何《いかん》となれば現代人の古美術保存という奴がそもそも古美術の風趣を害する原因で、古社寺の周囲に鉄の鎖を張りペンキ塗《ぬり》の立札《たてふだ》に例の何々スベカラズをやる位ならまだしも結構。古社寺保存を名とする修繕の請負工事などと来ては、これ全く破壊の暴挙に類する事は改めてここに実例を挙げるまでもない。それ故私は唯目的なくぶらぶら歩いて好勝手《すきかって》なことを書いていればよいのだ。家《うち》にいて女房《にょうぼ》のヒステリイ面《づら》に浮世をはかなみ、あるいは新聞雑誌の訪問記者に襲われて折角掃除した火鉢《ひばち》を敷島《しきしま》の吸殻だらけにされるより、暇があったら歩くにしくはない。歩け歩けと思って、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである。
元来がかくの如く目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘《こうもりがさ》に日和下駄《ひよりげた》を曳摺《ひきず》って行く中《うち》、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の横町《よこちょう》の木立《こだち》を仰ぎ、溝《どぶ》や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して少時《しばし》我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。
同じ荒廃した光景でも名高い宮殿や城郭《じょうかく》ならば三体詩《さんたいし》なぞで人も知っているように、「太掖勾陳処処[#(ニ)]疑[#(フ)]。薄暮[#(ノ)]毀垣春雨[#(ノ)]裏。〔太掖《たいえき》か勾陳《こうちん》か処処《しょしょ》に疑《うたが》う。薄暮《はくぼ》の毀垣《きえん》 春雨《しゅんう》の裏《うち》。〕」あるいはまた、「煬帝[#(ノ)]春游古城在。壊宮芳草満[#(ツ)][#二]人家[#(ニ)][#一]。〔煬帝《ようだい》の春游《しゅんゆう》せる古城《こじょう》在《あ》り。壊宮《かいきゅう》の芳草《ほうそう》 人家《じんか》に満《み》つ。〕」などと詩にも歌にもして伝えることができよう。
しかし私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址《はいし》は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易にその特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。譬《たと》えば砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の煉瓦塀《れんがべい》にその片側を限られた小石川の富坂《とみざか》をばもう降尽《おりつく》そうという左側に一筋の溝川《みぞかわ》がある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》の方へと曲って行く横町なぞ即《すなわち》その一例である。両側の家並《やなみ》は低く道は勝手次第に迂《うね》っていて、ペンキ塗の看板や模造西洋造りの硝子戸《ガラスど》なぞは一軒も見当らぬ処から、折々氷屋の旗なぞの閃《ひらめ》く外《ほか》には横町の眺望に色彩というものは一ツもなく、仕立屋《したてや》芋屋|駄菓子屋《だがしや》挑灯屋《ちょうちんや》なぞ昔ながらの職業《なりわい》にその日の暮しを立てている家《うち》ばかりである。私は新開町《しんかいまち》の借家《しゃくや》の門口《かどぐち》によく何々商会だの何々事務所なぞという木札《きふだ》のれいれいしく下げてあるのを見ると、何という事もなく新時代のかかる企業に対して不安の念を起すと共に、その主謀者の人物についても甚しく危険を感ずるのである。それに引《ひき》かえてこういう貧しい裏町に昔ながらの貧しい渡世《とせい》をしている年寄を見ると同情と悲哀とに加えてまた尊敬の念を禁じ得ない。同時にこういう家《うち》の一人娘は今頃|周旋屋《しゅうせんや》の餌《えば》になってどこぞで芸者でもしていはせぬかと、そんな事に思到《おもいいた》ると相も変らず日本固有の忠孝の思想と人身売買の習慣との関係やら、つづいてその結果の現代社会に及ぼす影響なぞについていろいろ込み入った考えに沈められる。
ついこの間も麻布網代町辺《あざぶあみしろちょうへん》の裏町を通った時、私は活動写真や国技館や寄席《よせ》なぞのビラが崖地《がけち》の上から吹いて来る夏の風に飜《ひるがえ》っている氷屋の店先《みせさき》、表から一目に見通される奥の間で十五、六になる娘が清元《きよもと》をさらっているのを見て、いつものようにそっと歩《あゆみ》を止《と》めた。私は不健全な江戸の音曲《おんぎょく》というものが、今日の世にその命脈を保っている事を訝《いぶか》しく思うのみならず、今もってその哀調がどうしてかくも私の心を刺戟するかを不思議に感じなければならなかった。何気なく裏町を通りかかって小娘の弾《ひ》く三味線《しゃみせん》に感動するようでは、私は到底世界の新しい思想を迎える事は出来まい。それと共にまたこの江戸の音曲をばれいれいしく電気燈の下《した》で演奏せしめる世俗一般の風潮にも伴《ともな》って行く事は出来まい。私の感覚と趣味とまた思想とは、私の境遇に一大打撃を与える何物かの来《きた》らざる限り、次第に私をして固陋偏狭《ころうへんきょう》ならしめ、遂には全く世の中から除外されたものにしてしまうであろう。私は折々反省しようと力《つと》めても見る。同時に心柄《こころがら》なる身の末は一体どんなになってしまうものかと、いっそ放擲《ほうてき》して自分の身をば他人のようにその果敢《はか》ない行末《ゆくすえ》に対して皮肉な一種の好奇心を感じる事すらある。自分で己れの身を抓《つね》ってこの位《くらい》力を入れればなるほどこの位痛いものだと独りでいじめて独りで涙ぐんでいるようなものである。或時は表面に恬淡洒脱《てんたんしゃだつ》を粧《よそお》っているが心の底には絶えず果敢いあきらめを宿している。これがために「涙でよごす白粉《おしろい》のその顔かくす無理な酒」というような珍しくもない唄《うた》が、聞く度ごとに私の心には一種特別な刺戟を与える。私は後《うしろ》から勢《いきおい》よく襲い過ぎる自動車の響に狼狽して、表通《おもてどおり》から日の当らない裏道へと逃げ込み、そして人に後《おく》れてよろよろ歩み行く処に、わが一家《いっか》の興味と共に苦しみ、また得意と共に悲哀を見るのである。
[#改ページ]
第二 淫祠
裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄《ひよりげた》をカラカラ鳴《なら》して行く裏通《うらどおり》にはきまって淫祠《いんし》がある。淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのままに打捨てて置かれれば結構、ややともすれば取払われべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に或《ある》趣《おもむき》を添える上からいって淫祠は遥《はるか》に銅像以上の審美的価値があるからである。本所深川《ほんじょふかがわ》の堀割の橋際《はしぎわ》、麻布芝辺《あざぶしばへん》の極めて急な坂の下、あるいは繁華な町の倉の間、または寺の多い裏町の角なぞに立っている小さな祠《ほこら》やまた雨《あま》ざらしのままなる石地蔵《いしじぞう》には今もって必ず願掛《がんがけ》の絵馬《えま》や奉納の手拭《てぬぐい》、或時は線香なぞが上げてある。現代の教育はいかほど日本人を新しく狡猾《こうかつ》にしようと力《つと》めても今だに一部の愚昧《ぐまい》なる民の心を奪う事が出来ないのであった。路傍《ろぼう》の淫祠に祈願を籠《こ》め欠《か》けたお地蔵様の頸《くび》に涎掛《よだれかけ》をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。義賊になるかも知れぬ。無尽《むじん》や富籤《とみくじ》の僥倖《ぎょうこう》のみを夢見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を企《くわだ》てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない。
淫祠は大抵その縁起《えんぎ》とまたはその効験《こうけん》のあまりに荒唐無稽《こうとうむけい》な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。
聖天様《しょうでんさま》には油揚《あぶらあげ》のお饅頭《まんじゅう》をあげ、大黒様《だいこくさま》には二股大根《ふたまただいこん》、お稲荷様《いなりさま》には油揚を献《あ》げるのは誰も皆知っている処である。芝日蔭町
前へ
次へ
全14ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング