ょうばし》下谷《したや》浅草《あさくさ》等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川《さくらがわ》、根津《ねず》の藍染川《あいそめがわ》、麻布の古川《ふるかわ》、下谷の忍川《しのぶがわ》の如きその名のみ美しき溝渠《こうきょ》、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重《いくえ》の濠《ほり》、第七は不忍池《しのばずのいけ》、角筈十二社《つのはずじゅうにそう》の如き池である。井戸は江戸時代にあっては三宅坂側《みやけざかそば》の桜《さくら》ヶ|井《い》、清水谷《しみずだに》の柳《やなぎ》の井《い》、湯島《ゆしま》の天神《てんじん》の御福《おふく》の井《い》の如き、古来江戸名所の中《うち》に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。
 東京市はかくの如く海と河と堀と溝《みぞ》と、仔細《しさい》に観察し来《きた》ればそれら幾種類の水――即ち流れ動く水と淀《よど》んで動かぬ死したる水とを有する頗《すこぶる》変化に富んだ都会である。まず品川の入海《いりうみ》を眺めんにここは目下なお築港の大工事中であれば、将来如何なる光景を呈し来《きた》るや今より予想する事はできない。今日までわれわれが年久しく見馴れて来た品川の海は僅《わずか》に房州通《ぼうしゅうがよい》の蒸汽船と円《まる》ッこい達磨船《だるません》を曳動《ひきうごか》す曳船の往来する外《ほか》、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海《どろうみ》である。潮《しお》の引く時|泥土《でいど》は目のとどく限り引続いて、岸近くには古下駄に炭俵《すみだわら》、さては皿小鉢や椀のかけらに船虫《ふなむし》のうようよと這寄《はいよ》るばかり。この汚い溝《どぶ》のような沼地を掘返しながら折々は沙蚕《ごかい》取りが手桶《ておけ》を下げて沙蚕を取っている事がある。遠くの沖には彼方《かなた》此方《こなた》に澪《みお》や粗朶《そだ》が突立《つった》っているが、これさえ岸より眺むれば塵芥《ちりあくた》かと思われ、その間《あいだ》に泛《うか》ぶ牡蠣舟《かきぶね》や苔取《のりとり》の小舟《こぶね》も今は唯|強《し》いて江戸の昔を追回《ついかい》しようとする人の眼にのみ聊《いささ》かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬこの無用なる品川湾の眺望は、彼《か》の八《や》ツ山《やま》の沖《おき》に並んで泛ぶこれも無用なる御台場《おだいば》と相俟《あいま》って、いかにも過去った時代の遺物らしく放棄された悲しい趣を示している。天気のよい時|白帆《しらほ》や浮雲《うきぐも》と共に望み得られる安房《あわ》上総《かずさ》の山影《さんえい》とても、最早《もは》や今日の都会人には彼《か》の花川戸助六《はたかわどすけろく》が台詞《せりふ》にも読込まれているような爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅《いんめつ》してしまったにかかわらず、その代りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日においてはいまだ成立たずにいるのである。
 芝浦《しばうら》の月見も高輪《たかなわ》の二十六夜待《にじゅうろくやまち》も既になき世の語草《かたりぐさ》である。南品《なんぴん》の風流を伝えた楼台《ろうだい》も今は唯《ただ》不潔なる娼家《しょうか》に過ぎぬ。明治二十七、八年頃|江見水蔭子《えみすいいんし》がこの地の娼婦を材料として描いた小説『泥水清水《どろみずしみず》』の一篇は当時|硯友社《けんゆうしゃ》の文壇に傑作として批評されたものであったが、今よりして回想すれば、これすら既に遠い世のさまを描いた物語のような気がしてならぬ。
 かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢《むらが》り立った大川口《おおかわぐち》の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後《ご》とも案外長く或《ある》一派の詩人を悦《よろこ》ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎《きのしたもくたろう》北原白秋《きたはらはくしゅう》諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋《つきしまえいたいばし》あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものが尠《すくな》くなかった。全く石川島《いしかわじま》の工場を後《うしろ》にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊《ていはく》するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船《ほまえせん》を見ればおのずと特種の詩情が催《もよお》される。私は永代橋を渡る時活動するこの河口《かわぐち》の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐《かれん》なる彼《か》の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や辰巳《たつみ》の昔を回想せしむべき
前へ 次へ
全35ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング