》し深厚なる愛情を持っていたなら、たとえ西洋文明を模倣するにしても今日の如く故国の風景と建築とを毀損《きそん》せずに済んだであろうと思っている。電線を引くに不便なりとて遠慮|会釈《えしゃく》もなく路傍《ろぼう》の木を伐《き》り、または昔からなる名所《めいしょ》の眺望や由緒《ゆいしょ》のある老樹にも構わずむやみやたらに赤煉瓦の高い家を建てる現代の状態は、実に根柢《こんてい》より自国の特色と伝来の文明とを破却《はきゃく》した暴挙といわねばならぬ。この暴挙あるがために始めて日本は二十世紀の強国になったというならば、外観上の強国たらんがために日本はその尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。
私は上野博物館の門内に入《い》る時、表慶館《ひょうけいかん》の傍《かたわら》に今なお不思議にも余命を保っている老松の形と赤煉瓦の建築とを対照して、これが日本固有の貴重なる古美術を収めた宝庫かと誠に奇異なる感に打たれる。日本橋《にほんばし》の大通《おおどおり》を歩いて三井三越を始めこの辺《へん》に競うて立つアメリカ風の高い商店を望むごとに、私はもし東京市の実業家が真に日本橋といい駿河町《するがちょう》と呼ぶ名称の何たるかを知りこれに対する伝説の興味を感じていたなら、繁華な市中《しちゅう》からも日本晴《にほんばれ》の青空遠く富士山を望み得たという昔の眺望の幾分を保存させたであろうと愚《ぐ》にもつかぬ事を考え出す。私は外濠《そとぼり》の土手に残った松の木をば雪の朝《あした》月の夕《ゆうべ》、折々の季節につれて、現今の市中第一の風景として悦《よろこ》ぶにつけて、近頃|四谷見附内《よつやみつけうち》に新築された大きな赤い耶蘇《やそ》の学校の建築をば心の底から憎まねばならぬ。日常かかる不調和な市街の光景に接した目を転じて、一度《ひとたび》市内に残された寺院神社を訪《と》えばいかにつまらぬ堂宇もまたいかに狭い境内《けいだい》も私の心には無限の慰藉《いしゃ》を与えずにはいない。
私は市中の寺院や神社をたずね歩いて最も幽邃《ゆうすい》の感を与えられるのは、境内に進入《すすみい》って近く本堂の建築を打仰ぐよりも、路傍に立つ惣門《そうもん》を潜《くぐ》り、彼方《かなた》なる境内の樹木と本堂鐘楼|等《とう》の屋根を背景にして、その前に聳《そび》える中門《ちゅうもん》または山門をば、長い敷石道の此方《こなた》から遠く静に眺め渡す時である。浅草の観音堂について論ずれば雷門《かみなりもん》は既に焼失《やけう》せてしまったが今なお残る二王門《におうもん》をば仲店《なかみせ》の敷石道から望み見るが如き光景である。あるいはまた麻布広尾橋《あざぶひろおばし》の袂《たもと》より一本道の端《はず》れに祥雲寺《しょううんじ》の門を見る如き、あるいは芝大門《しばだいもん》の辺《へん》より道の両側に塔中《たっちゅう》の寺々|甍《いらか》[#「甍」は底本では「薨」]を連ぬるその端れに当って遥に朱塗《しゅぬり》の楼門を望むが如き光景である。私はかくの如き日本建築の遠景についてこれをば西洋で見た巴里《パリー》の凱旋門《がいせんもん》その他《た》の眺望に比較すると、気候と光線の関係故か、唯《ただ》何とはなしに日本の遠景は平たく見えるような心持がする。この点において歌川豊春《うたがわとよはる》らの描いた浮絵《うきえ》の遠景木板画にはどうかすると真《しん》によくこの日本的感情を示したものがある。
私は適度の距離から寺の門を見る眺望と共にまた近寄って扉の開かれた寺の門をそのままの額縁《がくぶち》にして境内を窺《うかが》い、あるいはまた進み入って境内よりその門外を顧《かえりみ》る光景に一段の画趣を覚える。既に『大窪《おおくぼ》だより』その他の拙著において私は寺の門口《もんぐち》からその内外を見る景色の最も面白きは浅草の二王門及び随身門《ずいじんもん》である事を語った。然《さ》れば今更ここにその興味を繰返して述べる必要はない。
寺の門はかくの如く本堂の建築とは必ず適度の距離に置かれ、境内に入るものをしてその眺望よりして自《おのずか》ら敬虔《けいけん》の心を起さしめるように造られてある。寺の門は宛《さなが》ら西洋管絃楽の序曲《プレリュード》の如きものである。最初に惣門《そうもん》ありその次に中門《ちゅうもん》あり然る後幽邃なる境内あってここに始めて本堂が建てられるのである。神社について見るもまず鳥居《とりい》あり次に楼門あり、これを過ぎて始めて本殿に到る。皆相応の距離が設けられてある。この距離あって始めて日本の寺院と神社の威厳が保たれるのである。されば寺院神社の建築を美術として研究せんと欲するものは、単独にその建築を観《み》るに先立って、広く境内の敷地全体の設計並びにその地勢から観察して行かねばならぬ
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