は四谷見附《よつやみつけ》を出てから迂曲《うきょく》した外濠の堤《つつみ》の、丁度その曲角《まがりかど》になっている本村町《ほんむらちょう》の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込《うしごめ》を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷|八幡《はちまん》の桜早くも散って、茶《ちゃ》の木《き》稲荷《いなり》の茶の木の生垣《いけがき》伸び茂る頃、濠端《ほりばた》づたいの道すがら、行手《ゆくて》に望む牛込小石川の高台かけて、緑《みどり》滴《したた》る新樹の梢《こずえ》に、ゆらゆらと初夏《しょか》の雲凉し気《げ》に動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこの辺《あたり》を中心にして江戸の狂歌が勃興した天明《てんめい》時代の風流を思起《おもいおこ》すのである。『狂歌|才蔵集《さいぞうしゅう》』夏の巻《まき》にいわずや、
[#ここから5字下げ]
首夏《しゅか》
[#ここで字下げ終わり]
[#地から10字上げ]馬場金埒《ばばきんらち》
[#ここから3字下げ]
花はみなおろし大根《だいこ》となりぬらし鰹《かつお》に似たる今朝《けさ》の横雲
[#ここから5字下げ]
新樹
[#ここで字下げ終わり]
[#地から10字上げ]紀躬鹿《きのみじか》
[#ここから3字下げ]
花の山にほひ袋の春過ぎて青葉ばかりとなりにけるかな
[#ここから5字下げ]
更衣《ころもがえ》
[#ここで字下げ終わり]
[#地から10字上げ]地形方丸《じぎょうかたまる》
[#ここから3字下げ]
夏たちて布子《ぬのこ》の綿はぬきながらたもとにのこる春のはな帋《がみ》
[#ここで字下げ終わり]
江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添えしむるものである。
私は小石川なる父の家の門札《もんふだ》に、第四|大区《だいく》第何小区何町何番地と所書《ところがき》のしてあったのを記憶している。東京府が今日の如く十五区六郡に区劃されたのは、丁度私の生れた頃のこと。それまでは十一の大区に分たれていたのである。私は柳北《りゅうほく》の随筆、芳幾《よしいく》の綿絵《にしきえ》、清親《きよちか》の名所絵、これに東京絵図を合せ照してしばしば明治初年の渾沌《こんとん》たる新時代の感覚に触るる事を楽しみとする。
市中《しちゅう》を散歩しつつこの年代の東京絵図を開き見れば諸処《しょしょ》の重立《おもだ》った大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となっている。下谷佐竹《したやさたけ》の屋敷は調練場《ちょうれんば》となり、市ヶ谷と戸塚村《とつかむら》なる尾州侯《びしゅうこう》の藩邸、小石川なる水戸の館第《かんてい》も今日われわれの見る如く陸軍の所轄《しょかつ》となり名高き庭苑も追々に踏み荒されて行く。鉄砲洲《てっぽうず》なる白河楽翁公《しらかわらくおうこう》が御下屋敷《おしもやしき》の浴恩園《よくおんえん》は小石川の後楽園《こうらくえん》と並んで江戸名苑の一に数えられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや寄集《よりあつま》って酒を呑む倶楽部《クラブ》のようなものになってしまった。江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも仏蘭西《フランス》革命史を読むが如き感に打たれるであろう。われわれはそれよりも時としては更に深い感慨に沈められるといってもよい。何故《なにゆえ》なれば、仏蘭西の市民《シトワイヤン》は政変のために軽々しくヴェルサイユの如きルウブルの如き大なる国民的美術的建築物を壊《こぼ》ちはしなかったからである。現代官僚の教育は常に孔孟《こうもう》の教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の水を過《すぎ》る度々「仰高《ぎょうこう》」の二字を掲げた大成殿《たいせいでん》の表門を仰げば、瓦は落ちたるままに雑草も除かず風雨の破壊するがままに任せてある。しかして世人の更にこれを怪しまざるが如きに至っては、われらは唯|唖然《あぜん》たるより外《ほか》はない。
[#改ページ]
第五 寺
杖《つえ》のかわりの蝙蝠傘《こうもりがさ》と共に私が市中《しちゅう》散歩の道しるべとなる昔の江戸切絵図《えどきりえず》を開き見れば江戸中には東西南北到る処に夥《おびただ》しく寺院神社の散在していた事がわかる。江戸の都会より諸侯の館邸と武家《ぶけ》の屋敷と神社仏閣を除いたなら残る処の面積は殆どない位《くらい》であろう。明治初年神仏の区別を分明《ぶんめい》にして以来殊には近年に至って市区改正のため仏寺の取払いとなったものは尠《すくな》くない。それにもかかわらず寺院は今なお市中|何処《いずこ》という限りもなく、あるいは坂の上|崖《がけ》の下、川のほとり橋の際《きわ》、到る処にその門と堂の屋根を聳《そび
前へ
次へ
全35ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング