日和下駄
一名 東京散策記
永井荷風

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)改竄《かいざん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この度|米刃堂《へいじんどう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「米+參」、第3水準1−89−88]

 [#…]:返り点
 (例)壊宮芳草満[#(ツ)][#二]人家[#(ニ)][#一]。

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)太掖勾陳処処[#(ニ)]疑[#(フ)]
−−

     序

東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度|米刃堂《へいじんどう》主人のもとめにより改竄《かいざん》して一巻とはなせしなり。ここにかく起稿の年月を明《あきらか》にしたるはこの書|板《はん》成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところ尠《すくな》からざらん事を思へばなり。見ずや木造の今戸橋《いまどばし》は蚤《はや》くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草《つゆくさ》の花を見ず。桜田御門外《さくらだごもんそと》また芝赤羽橋|向《むこう》の閑地《あきち》には土木の工事今まさに興《おこ》らんとするにあらずや。昨日の淵《ふち》今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、拙《つたな》きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。
  乙卯《いつぼう》の年晩秋
[#地から2字上げ]荷風小史
[#改訂]

     第一 日和下駄

 人並はずれて丈《せい》が高い上にわたしはいつも日和下駄《ひよりげた》をはき蝙蝠傘《こうもりがさ》を持って歩く。いかに好《よ》く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中|湿気《しっけ》の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお上《かみ》の御政事《おせいじ》とばかり極《きま》ったものではない。春の花見頃|午前《ひるまえ》の晴天は午後《ひるすぎ》の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨《つゆ》の中《うち》は申すに及ばず。土用《どよう》に入《い》ればいついかなる時|驟雨《しゅうう》沛然《はいぜん》として来《きた》らぬとも計《はか》りがたい。尤《もっと》もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が割《わり》なき契《ちぎり》を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ幌《ほろ》の中《うち》、しっぽり何処《どこ》ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題《それはさておき》日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返《こねかえ》す霜解《しもどけ》も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通《おおどおり》、やたらに溝《どぶ》の水を撒《ま》きちらす泥濘《ぬかるみ》とて一向驚くには及ぶまい。
 私《わたし》はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。
 市中《しちゅう》の散歩は子供の時から好きであった。十三、四の頃私の家《うち》は一時|小石川《こいしかわ》から麹町永田町《こうじまちながたちょう》の官舎へ引移《ひきうつ》った事があった。勿論《もちろん》電車のない時分である。私は神田錦町《かんだにしきちょう》の私立英語学校へ通《かよ》っていたので、半蔵御門《はんぞうごもん》を這入《はい》って吹上御苑《ふきあげぎょえん》の裏手なる老松《ろうしょう》鬱々たる代官町《だいかんちょう》の通《とおり》をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋《たけばし》を渡って平川口《ひらかわぐち》の御城門《ごじょうもん》を向うに昔の御搗屋《おつきや》今の文部省に沿うて一《ひと》ツ橋《ばし》へ出る。この道程《みちのり》もさほど遠いとも思わず初めの中《うち》は物珍しいのでかえって楽しかった。宮内省《くないしょう》裏門の筋向《すじむこう》なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎《えのき》があった。その頃その木蔭《こかげ》なる土手下の路傍《みちばた》に井戸があって夏冬ともに甘酒《あまざけ》大福餅《だいふくもち》稲荷鮓《いなりずし》飴湯《あめゆ》なんぞ売るものがめいめい荷を卸《おろ》して往来《ゆきき》の人の休むのを待っていた。車力《しゃりき》や馬方《うまかた》が多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。こ
次へ
全35ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング