処には自由に桜の花を描き柳原《やなぎわら》の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山《あすかやま》より遠く日光《にっこう》筑波《つくば》の山々を見ることを得れば直《ただち》にこれを雲の彼方《かなた》に描示《えがきしめ》すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味|津々《しんしん》よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遥《はるか》に直感的また印象的の方法に出でたものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治法律教育万般のこと尽《ことごと》くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》の眼力《がんりき》は江戸絵図の如し。更に語《ご》を換《か》ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。
 江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ伴侶《はんりょ》となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩《あゆ》み行けば身は自《おのずか》らその時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京|中《じゅう》には何処《いずこ》に行くとも心より恍惚として去るに忍びざるほど美麗なもしくは荘厳な風景建築に出遇《であ》わぬかぎり、いろいろと無理な方法を取りこれによって纔《わずか》に幾分の興味を作出《つくりだ》さねばならぬ。然《しか》らざれば如何に無聊《ぶりょう》なる閑人《かんじん》の身にも現今の束京は全く散歩に堪《た》えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を便《たよ》りにして、例えば銀座の角《かど》のライオンを以て直ちに巴里《パリー》のカッフェーに擬《ぎ》し帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人にはあるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式|偽文明《ぎぶんめい》が森永の西洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩《ともがら》に対しては、東京なる都会の興味は勢《いきおい》尚古的《しょうこてき》退歩的たらざるを得ない。われわれは市《いち》ヶ|谷《や》外濠《そとぼり》の埋立工事を見て、いかにするとも将来の新美観を予測することの出来ない限り、愛惜《あいせき》の情《じょう》は自ら人をしてこの堀に藕花《ぐうか》の馥郁《ふくいく》とした昔を思わしめる。
 私
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