くから出て来るものと見え、いつでも鞋《わらじ》に脚半掛《きゃはんが》け尻端打《しりはしおり》という出立《いでたち》で、帰りの夜道の用心と思われる弓張提灯《ゆみはりちょうちん》を腰低く前で結んだ真田《さなだ》の三尺帯の尻《しり》ッぺたに差していた。縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは煙管《きせる》を啣《くわ》えて路傍《みちばた》に蹲踞《しゃが》んでいた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、扇子《せんす》をパチリパチリと音させて、二、三度つづけ様に鼻から吸い込む啖唾《たんつば》を音高く地面へ吐く。すると始めは極く低い皺嗄《しわが》れた声が次第次第に専門的な雄弁に代って行く。
「……あれえッという女の悲鳴。こなたは三本木《さんぼんぎ》の松五郎《まつごろう》、賭場《とば》の帰りの一杯機嫌、真暗な松並木をぶらぶらとやって参ります……」
話が興味の中心に近《ちかづ》いて来ると、いつでも爺さんは突然調子を変え、思いもかけない無用なチャリを入れてそれをば聞手の群集から金を集める前提にするのであるが、物馴れた敏捷な聞手は早くも気勢を洞察して、半開《はんびら》きにした爺さんの扇子がその鼻先へと差出されぬ中《うち》にばらばら逃げてしまう。すると爺さんは逃げ後《おく》れたまま立っている人たちへ面当《つらあて》がましく、「彼奴《あいつ》らア人間はお飯《まんま》喰わねえでも生きてるもんだと思っていやがらア。昼鳶《ひるとんび》の持逃《もちにげ》野郎奴。」なぞと当意即妙の毒舌を振って人々を笑わせるかと思うと罪のない子供が知らず知らずに前の方へ押出て来るのを、また何とかいって叱りつけ自分も可笑《おかし》そうに笑っては例の啖唾を吐くのであった。
縁日の事からもう一人私の記憶に浮び出《いづ》るものは、富坂下《とみざかした》の菎蒻閻魔《こんにゃくえんま》の近所に住んでいたとかいう瞽女《ごぜ》である。物乞《ものごい》をするために急に三味線を弾《ひ》き初めたものと見えて、年は十五、六にもなるらしい大きな身体《ずうたい》をしながら、カンテラを点《とも》した薦《ござ》の上に坐って調子もカン処《どこ》も合わない「一ツとや」を一晩中休みなしに弾いていた。その様子が可笑しいというので、縁日を歩く人は大抵立止っては銭を投げてやった。二年三年とたつ中《うち》に瞽女は立派な専門の門附《かどづけ》になって「春雨」や「梅にも春」などを弾き出したがする中《うち》いつか姿を見せなくなった。私は家《うち》の女中が何処から聞いて来たものか、あの瞽女は目も見えないくせに男と密通《くっつ》いて子を孕《はら》んだのだと噂しているのを聞いた事がある。
これも同じ縁日の夜《よ》に、一人相撲《ひとりずもう》というものを取って銭を乞う男があった。西、両国《りょうごく》、東、小柳《こやなぎ》と呼ぶ呼出し奴《やっこ》から行司《ぎょうじ》までを皆一人で勤め、それから西東の相撲の手を代り代りに使い分け、果《はて》は真裸体《まっぱだか》のままでズドンと土《どろ》の上に転《ころが》る。しかしこれは間もなく警察から裸体《はだか》になる事を禁じられて、それなり縁日には来なくなったらしい。
*
金剛寺坂《こんごうじざか》の笛熊《ふえくま》さんというのは、女髪結《おんなかみゆい》の亭主で大工の本職を放擲《うっちゃ》って馬鹿囃子《ばかばやし》の笛ばかり吹いている男であった。按摩《あんま》の休斎《きゅうさい》は盲目ではないが生付いての鳥目《とりめ》であった。三味線弾きになろうとしたが非常に癇《かん》が悪い。落話家《はなしか》の前座になって見たがやはり見込がないので、遂に按摩になったという経歴から、ちょっと踊もやる落話《おとしばなし》もする愛嬌者《あいきょうもの》であった。
般若《はんにゃ》の留《とめ》さんというのは背中一面に般若の文身《ほりもの》をしている若い大工の職人で、大タブサに結った髷《まげ》の月代《さかやき》をいつでも真青《まっさお》に剃っている凄いような美男子であった。その頃にはまだ髷に結っている人も大分残ってはいたが、しかし大方は四十を越した老人《としより》ばかりなので、あの般若の留さんは音羽屋《おとわや》のやった六三《ろくさ》や佐七《さしち》のようなイキなイナセな昔の職人の最後の面影をば、私の眼に残してくれた忘れられない恩人である。
昔は水戸様から御扶持《ごふち》を頂いていた家柄だとかいう棟梁《とうりょう》の忰《せがれ》に思込まれて、浮名《うきな》を近所に唄《うた》われた風呂屋の女の何とやらいうのは、白浪物《しらなみもの》にでも出て来そうな旧時代の淫婦であった。江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉《おしろい》を塗った女が入浴の男を捉えて戯《たわむ》れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群《むれ》の戯れ遊ぶ浴殿《よくでん》の歓楽さえさして羨むには当るまい。
*
小石川は東京全市の発達と共に数年ならずしてすっかり見違えるようになってしまうであろう。
始めて六尺横町《ろくしゃくよこちょう》の貸本屋から昔のままなる木版刷《もくはんずり》の『八犬伝《はっけんでん》』を借りて読んだ当時、子供心の私には何ともいえない神秘の趣を示した氷川《ひかわ》の流れと大塚の森も取払われるに間もあるまい。私が最後に茗荷谷《みょうがだに》のほとりなる曲亭馬琴《きょくていばきん》の墓を尋ねてから、もう十四、五年の月日は早くも去っている……。
[#地から2字上げ]明治四十三年七月
底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
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