の門附《かどづけ》になって「春雨」や「梅にも春」などを弾き出したがする中《うち》いつか姿を見せなくなった。私は家《うち》の女中が何処から聞いて来たものか、あの瞽女は目も見えないくせに男と密通《くっつ》いて子を孕《はら》んだのだと噂しているのを聞いた事がある。
これも同じ縁日の夜《よ》に、一人相撲《ひとりずもう》というものを取って銭を乞う男があった。西、両国《りょうごく》、東、小柳《こやなぎ》と呼ぶ呼出し奴《やっこ》から行司《ぎょうじ》までを皆一人で勤め、それから西東の相撲の手を代り代りに使い分け、果《はて》は真裸体《まっぱだか》のままでズドンと土《どろ》の上に転《ころが》る。しかしこれは間もなく警察から裸体《はだか》になる事を禁じられて、それなり縁日には来なくなったらしい。
*
金剛寺坂《こんごうじざか》の笛熊《ふえくま》さんというのは、女髪結《おんなかみゆい》の亭主で大工の本職を放擲《うっちゃ》って馬鹿囃子《ばかばやし》の笛ばかり吹いている男であった。按摩《あんま》の休斎《きゅうさい》は盲目ではないが生付いての鳥目《とりめ》であった。三味線弾きになろうとしたが非常に癇《かん》が悪い。落話家《はなしか》の前座になって見たがやはり見込がないので、遂に按摩になったという経歴から、ちょっと踊もやる落話《おとしばなし》もする愛嬌者《あいきょうもの》であった。
般若《はんにゃ》の留《とめ》さんというのは背中一面に般若の文身《ほりもの》をしている若い大工の職人で、大タブサに結った髷《まげ》の月代《さかやき》をいつでも真青《まっさお》に剃っている凄いような美男子であった。その頃にはまだ髷に結っている人も大分残ってはいたが、しかし大方は四十を越した老人《としより》ばかりなので、あの般若の留さんは音羽屋《おとわや》のやった六三《ろくさ》や佐七《さしち》のようなイキなイナセな昔の職人の最後の面影をば、私の眼に残してくれた忘れられない恩人である。
昔は水戸様から御扶持《ごふち》を頂いていた家柄だとかいう棟梁《とうりょう》の忰《せがれ》に思込まれて、浮名《うきな》を近所に唄《うた》われた風呂屋の女の何とやらいうのは、白浪物《しらなみもの》にでも出て来そうな旧時代の淫婦であった。江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉《おしろい》を塗った女が入浴の
前へ
次へ
全8ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング