危ぶみながら待つてゐると、さして多くもない乗客の後《あと》から、今日は和服にシヨールを纏つた彼女の下りて来る姿を見て、此の調子なら今日はいよ/\大丈夫だと思つた。
都電で雷門まで行き、此の前とは異《ちが》つた別の映画館に這入つて、矢張其日と同じ頃に外へ出るが否や、友田は「何か一口食べて行きませう。」と女の手をつかまへ、昨日調べて置いたお好焼の二階へ上り、女中代りの小娘が盆に載せた茶を置いて行くのを呼び留め親子丼を誂へた後、茶ぶ台の傍に坐つてゐる女の身近に寄添ふが否や、「民子さん。」と言ひさま抱き締めて否応言はさず接吻してしまつた。
「あら。あなた。」と女は驚いて立上らうとするのを、友田はかまはず力一ぱい抱きすくめて、
「許して下さい。いゝでせう。今日は。今日は。」と言ひながら身悶えする女を其場に押倒した。
かうなつてはどうする事もできないと見え、女は乱れた裾前もそのまゝ、
「あなた、乱暴ね。ひどいわ、ひどいわ。」それも小声で言ふばかり。
暫くして、女は肩から落ちさうになつた羽織の紐を結び直さうとした時、わざとらしく梯子段に足音をさせて、女中代りの小娘が親子丼を二ツ運んで来て、茶ぶ台の上に置き、「お茶只今。」と言ひながら下りて行つた。
「民子さん。僕今日は気が狂《ちが》つてるかも知れません。許して下さい。どうぞ許して下さい。」とまたしても抱き寄せやうとする始末。女も遂に覚悟をしたものか、そのまゝ寄り添つたなり静に割箸を取つて男に渡した。
小娘が茶を入れた小形の湯呑を二ツ持つて来る。
「静だけど下にはお客様があるのかね。」
「いゝえ。内のお客様は晩《おそ》う御在ますから、まだどなたもお見えになりません。」
「さうかね。」
「どうぞ御ゆるりなさつて。御用が御在ましたら、どうぞお手を。」
「ぢやもう暫く御邪魔するよ。」
「はい。どうぞ。」と小娘は何事も心得て居るらしく、わざとお客の顔を見ぬやうにして下りて行つた。
友田が手を鳴して再び小娘を呼び上げ、席料と食べ物の代価を払つたのは、かれこれ一時間近くも過ぎてからであつた。
この日を手始めに、友田は日曜日毎に民子をつれて来るやうになつたが、四五回目で丁度其の月も変る頃からぱつたり姿を見せぬやうになつた。
友田は突然会社の横浜支店に転任を命ぜられ、本郷の貸間を引揚げて其町へ移転した。
浅草で逢ひつゞけてゐる中から、彼は早くも民子には倦きてゐた。同じ処で同じ女に逢ふのが、つまらなくて成らなくなつたものゝ今更さうとも云へないので、二三度処を変へてパン/\の出入する烏森あたりの旅館へ連込んだ事もあつたが、矢張同じ事。女の言ふこと、為すことはきまり切つてしまつて、初の中催したやうな刺戟も昂奮をも感じさせないので、遂には連込の席料を払ふことさへ次第に惜しくなるばかり。何とか口実をつけて逃げたいと思ふ矢先、突然横浜転任の命令を受けたのは、彼の身に取つては全く天の佑《たすけ》であつた。
月日は忽ち半年あまりを過ぎた。或日友田は東京にゐた時分の昔を思出し、同じやうな日曜の休日、久しぶりに銀座通や浅草公園を歩いて見やうと、横浜の駅から電車に乗ると、偶然車の中で以前机を並べて仕事をしてゐた同僚の一人に出会つた。
「やア、君。」
「やア、友田君。」
「今日は親類の者に頼まれて税関まで出て来たんですが、休日で駄目でした。」
「さうでしたか。東京の本店では皆さんお変りもありませんか。」
「みんな無事にやつて居ます。変りはありません。」
「女の人達も先の通りですか。」
「さう云へばあの人……君の机の筋向にゐた貝原民子さん。」
「うむ。民子さん。小柄の人でしたね。どうかしましたか。」
「近々結婚するさうです。」
「あの人が結婚をする……」
「会社へ来る前働いてゐた商店の人と、急に話がきまつて結婚するんださうです。」
「さうですか。さうですか。それは目出たい話ですな。」
友田は載せた雑誌の落るのもかまはず片手で其膝を叩き、さも可笑しさうに声まで出して大きく笑つた。[#地から1字上げ]昭和卅一年三月
底本:「日本の名随筆 別巻83 男心」作品社
1998(平成10)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一一巻」岩波書店
1964(昭和39)年11月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月5日作成
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