帝国劇場のオペラ
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)殆《ほとんど》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十余年前|笈《おい》

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(例)[#地から1字上げ]昭和二年五月
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 哀愁の詩人ミュッセが小曲の中に、青春の希望元気と共に銷磨し尽した時この憂悶を慰撫するもの音楽と美姫との外はない。曾てわかき日に一たび聴いたことのある幽婉なる歌曲に重ねて耳を傾ける時ほどうれしいものはない、と云うような意を述べたものがあった。
 わたくしが帝国劇場にオペラの演奏せられるたびたび、殆《ほとんど》毎夜往きて聴くことを娯《たの》しみとなしたのは、二十余年前|笈《おい》を負うて遠く西洋に遊んだ当時のことが歴々として思返されるが故である。ミュッセの詩に言われた如く、オペラはわたくしに取っては「曾て聴きおぼえのある甘く優しき歌」である。当時わたくしは猶二十七八歳の青年であった。然るに今や老年と疾病とはあらゆる希望と気魄とを蹂《ふ》み躙《にじ》ろうとしている。此の時に当って、曾《かつ》て夜々|紐育《ニューヨーク》に巴里《パリ》にまた里昂《リヨン》の劇場に聞き馴れた音楽を、偶然二十年の後、本国の都に聴く。わたくしは無量の感慨に打たれざるを得ない。
 顧《かえりみ》るにオペラの始て帝国劇場に演奏せられたのは大正八年の秋九月であった。わたくしは其の時までオペラの如き西洋の演芸が極東の都会に於て演奏せられようとは夢にだも思っていなかった。当時我国興行界の事情と、殊にその財力とは西洋オペラの一座を遠く極東の地に招聘し得べきものでないと臆断していたので、突然此事を聞き知った時のわたくしの驚愕は、欧洲戦乱の報を新聞紙上に見た時よりも遥に甚しきものがあった。
 五年間に渉《わた》った欧洲の戦乱は極東の帝国に暴富の幸を与えたことは既に人の知る所である。オペラ一座の渡来も要するに幸を東亜に与えた戦禍の一現象である。当時巴里に於て、一邦人が独力にしてマネエ、ロダンの如き巨匠の製作品と、又江戸浮世絵の蒐集品とを仏蘭西人の手より買取ったことがあった。是亦戦争の余沢である。オペラは帝国劇場を主管する山本氏の斡旋に依って邦人の前に演奏せられ、仏蘭西近世の美術品と江戸の浮世絵とは素封家松方氏の力によって極東の地に輸送せられた。日本の芸術界は此の二氏の周旋を俟って、未曾《いまだかつ》て目にしたことのなかった美術の名作を目睹し、また未嘗て耳にした事のなかった歌謡音楽を聴き得たわけである。わが当代の芸術界は之がために如何なる薫化を蒙ったかはまだ之を審《つまびらか》にすることができない。然し松方山本二氏の姓名の永くわが文化史上に記録せられべきものたることは言うを俟《ま》たない。
 大正八年の秋始て帝国劇場に於てオペラを演奏した芸人の一座は其本国を亡命した露西亜人によって組織せられていた。露西亜は欧米の都会に在ってさえ人々の常に不可思議なる国土となす所である。況《いわん》やわたくしは日本の東京に於て偶然露西亜語を以て唱われた歌曲を聴いたのである。九月一日初日の夜の演奏はたしか伊太利亜の人ウエルヂの作アイダ四幕であった。徐《おもむろ》に序曲の演奏せられる中わたくしはやがて幕の明くのを見た。其の瞬間に経験した奇異なる心況は殆《ほとんど》名状することの出来ないほど複雑なものであった。観客の言語服装と舞台の世界とは全然別種のもので、其間に何等の融和すべきものがない。これに加るに残暑の殊に烈しかった其年の気候はわたくしをして更に奇異なる感を増さしめる原因であった。オペラは欧洲の本土に在っては風雪|最《もっとも》凛冽《りんれつ》なる冬季にのみ興行せられるのが例である。それ故わたくしの西洋音楽を聴いて直に想い起すものは、深夜の燈火に照された雪中|街衢《がいく》の光景であった。
 然るに当夜観客の邦人中には市中の旅館に宿泊して居る人ででもあるのか、平袖の貸浴衣に羽織も着ず裾をまくり上げて団扇で脛をあおいでいる者もあり、又西洋人の中には植民地に於てのみ見受けられる雑種児にして、其風采容貌の欧洲本土に在っては決して見られない者も多く来り集っていた。其夜演奏が畢《おわ》って劇場を出ると、堀端からはハーモニカや流行唄が聞え、日比谷の四辻まで来ると公園の共同便所から発散する悪臭が人の鼻を衝く。家に帰ると座敷の内には藪蚊がうなっていて、墻《へい》の外には夜廻の拍子木が聞えるのである。わたくしは芸術が其の発生し、其の発達し来った本国を離れて、気候風土及び人種を異にした境に移された場合、其の芸術の効果と云い或は其の価値と称するものの何たるかを思考しなければならなかった。言を換うれば芸術の完全に鑑賞せられ得べき範囲に
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