り默つてしまつた蟋蟀は、さう云ふ晩から再び鳴きはじめて、いよ/\自分達の時節が來たと云はぬばかり、夜ごと夜ごとに其聲を強くし其調子を高めて行く。
二百十日が近くなつて、雨が多くなると、一雨ごとに蟲の聲は多くなる。ワグネルの音樂のやうに入り亂れて湧立つ如く鳴きしきる。
やがて時節は彼岸になる。十五夜の月見が年によつて彼岸の中日と同じになることもある。晝夜等分の頃が蟋蟀の合奏の最も調子が高く最も力のつよい其絶頂であらう。
山の手では人の往來《ゆきゝ》のかなり激しい道のはたにも暗くならぬ中から、下町では路地の芥箱から夜通し微妙な秋の曲が放送せられる。道端や芥箱のみではない。蟋蟀の鳴音はやがて格子戸の内、風呂場や臺所のすみ/″\からも聞えて來るやうになるのである。朝夕の寒さに蟋蟀もまた夜遊びに馴れた放蕩兒の如く、身にしむ露時雨《つゆしぐれ》のつめたさに、家の内が戀しくなるのであらう。
何といふわけもなく、いろ/\の事が胸の底から浮んで來る時節である。冬ぢかい秋の日の、どんよりと曇つたまゝ、雨にもならず風もそよがず、盡きない黄昏のやうに沈靜する晝過ほど、追憶と瞑想とに適した時はあるまい。日頃は忘れてゐるボードレールやヴヱルレーヌの詩篇が身を刺すやうにはつきり思返されて來る。萎《しを》れかけた草の葉かげから聞える晝間の蟲の聲は、正しく「秋のヰヨロンのすゝり泣する調《しらべ》」であらう。
枕に就いてからも眠られぬ夜はまた更に、蟋蟀の鳴く音を、戀人のさゝやきよりも懷しくいとしく思はなければなるまい。それは眠られぬ人に向つて、いかほど啼いたからとて、身にあまる生命の切なさと悲しさとが消去るものではない。蟋蟀は啼くために生れて來たその生命《いのち》のかなしさを、唯わけも知らず歎いてゐるのだと、知れざる言葉を以て、生命《せいめい》の苦惱と悲哀とを訴へるやうに思はれるからだ。
十三夜の月は次第に缺けて闇の夜がつゞく。人は既に袷をきてゐる。雨の夜には火鉢に火をおこす者もある。もう冬である。
それまでも生き殘つてゐた蟋蟀が、いよ/\その年の最終の歌をうたひ納める時、西の方から吹きつけて來る風が木の葉をちらす。菊よりも早く石蕗《つは》の花がさき、茶の花が匂ふ………。
底本:「日本の名随筆19 虫」作品社
1984(昭和59)年5月25日第1刷発行
1997(平成9
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング