は痩せ細り、眼鏡をかけた皺の多い肉の落ちた顔ばかりを見ると、もう六十を越していたようにも思われた。夏冬ともシャツにズボンをはいているばかり。何をしていたものの成れの果やら、知ろうとする人も、聞こうとする人も無論なかったが、さして品のわるい顔立ではなかったので、ごろつきでも遊び人でもなく、案外堅気の商人であったのかも知れない。
オペラ館の風呂場は楽屋口のすぐ側にあった。楽屋口には出入する人たちがいつも立談《たちばなし》をしていた。他の芝居へ出ているものや、地方興行から帰って来た人たちが、内のものを呼び出して、出入口の戸や壁に倚《よ》りかかって話をしている事もあるし、時侯が暑くなると舞台で使う腰掛を持出して、夜昼となく大勢|交《かわ》る交《がわ》るに腰をかけて、笑い興じていることもあったが、しかし爺さんがその仲間に入って話をしている事は滅多になかった。この腰掛で若い者が踊子と戯れ騒ぐのさえ、爺さんは見馴れているせいか、何が面白いのだと言わぬばかりの顔附で見向きもしなかった。
寒くなると、爺さんは下駄棚のかげになった狭い通路の壁際で股火《またび》をしながら居睡《いねむり》をしているので、外からも、内からも、殆ど人の目につかない事さえあった。
或年花の咲く頃であったろう。わたくしは爺さんが何処から持って来たものか、そぎ竹を丹念に細く削って鳥籠をつくっているのを見たことがあった。よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋《ちょうちんや》が箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さんはその言葉遣いや様子合《ようすあい》から下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑った顔を見たことがなかった。人は落魄《らくはく》して、窮困の中に年をとって行くと、まず先に笑うことから忘れて行くものかも知れない。
戦争が長びいて、瓦斯《ガス》もコークスも使えなくなって、楽屋の風呂が用をなさなくなると、ほどもなく、爺さんは解雇されたと見えて、楽屋口から影の薄い姿を消し、掃除は先の切れた箒《ほうき》で、新顔の婆さんがするようになった。
○
戦後に逢う二度目の秋も忽ち末近くなって来た。去年の秋はこれを岡山の西郊に迎え、その尽るのを熱海に送った。今年|下総葛飾《しもうさかつしか》の田園にわたくしは日ごとに烈しくなる風の響をききつつ光陰の早く去るのに驚いている。岡山にいたのは、その時には長いように思われていたが、実は百日に満たなかった。熱海の小春日和《こはるびより》は明るい昼の夢のようであった。
一たび家を失ってより、さすらい行く先々の風景は、胸裏に深く思出の種を蒔《ま》かずにはいなかった。その地を去る時、いつもわたくしは「きぬぎぬの別れ」に似た悲しみを覚えた。もう一度必ず来て見たいと期待しながら、去って他の地へ行くのである。しかしながら期待の実行は偶然の機会を待つより外はない。
八幡《やわた》の町の梨畠に梨は取り尽され、葡萄棚《ぶどうだな》からは明るく日がさすようになった。玉蜀黍《とうもろこし》の茎は倒れて見通す稲田の眺望は軟かに黄ばんで来た。いつの日にか、わたくしは再び妙林寺の松山に鳶《とんび》の鳴声をきき得るのであろう。今ごろ備中総社《びっちゅうそうじゃ》の町の人たちは裏山の茸狩《きのこがり》に、秋晴の日の短きを歎《なげ》いているにちがいない。三門《みかど》の町を流れる溝川《みぞがわ》の水も物洗うには、もう冷たくなり過ぎているであろう。
待つ心は日を重ね月を経るに従って、郷愁に等しき哀愁を醸《かも》す。郷愁ほど情緒の美しきものはない。長くわたくしが巴里《パリー》の空を忘れ得ぬのもこの情緒のなすところであろう。
巴里は再度兵乱に遭《あ》ったが依然として恙《つつが》なく存在している。春ともなればリラの花も薫《かお》るであろう。しかしわが東京、わが生れた孤島の都市は全く滅びて灰となった。郷愁は在《あ》るものを思慕する情をいうのである。再び見るべからざるものを見ようとする心は、これを名づけてそも何と言うべき歟《か》。
[#地から2字上げ]昭和廿一年十月草
底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
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