つも鼻緒《はなお》のゆるんでいないらしいのを突掛《つっか》けたのは、江戸ッ子特有の嗜《たしな》みであろう。仲間の職人より先に一人すたすたと千束町《せんぞくまち》の住家へ帰って行く。その様子合《ようすあい》から酒も飲まなかったらしい。
 この爺さんには娘が二人いた。妹の方は家《うち》で母親と共にお好み焼を商《あきな》い、姉の方はその頃年はもう二十二、三。芸名を栄子といって、毎日父の飾りつける道具の前で、幾年間|大勢《おおぜい》と一緒に揃って踊っていた踊子の中の一人であった。
 わたくしが栄子と心易《こころやす》くなったのは、昭和十三年の夏、作曲家S氏と共に、この劇場の演芸にたずさわった時からであった。初日の幕のあこうとする刻限、楽屋に行くと、その日は三社権現《さんじゃごんげん》御祭礼の当日だったそうで、栄子はわたくしが二階の踊子部屋へ入るのを待ち、風呂敷に包んで持って来た強飯《こわめし》を竹の皮のまま、わたくしの前にひろげて、家《うち》のおっかさんが先生に上げてくれッていいましたとの事であった。
 舞台の稽古が前の夜に済んで、初日にはわたくしの来ることが前々から知れていたからでもあろう。母親は日頃娘がひいきになるその返礼という心持ばかりでなく、むかしからの習慣で、お祭の景気とその喜びとを他所《よそ》から来る人にも頒《わか》ちたいというような下町気質《したまちかたぎ》を見せたのであろう。日頃何につけても、時代と人情との変遷について感動しやすいわたくしには、母親のこの厚意が何とも言えない嬉しさを覚えさせた。竹の皮を別にして包んだ蓮根《れんこん》の煮附《につけ》と、刻《きざ》み鯣《するめ》とに、少々|甘《あま》すぎるほど砂糖の入れられていたのも、わたくしには下町育ちの人の好む味《あじわ》いのように思われて、一層うれしい心持がしたのである。わたくしはジャズ模倣の踊をする踊子の楽屋で、三社祭《さんじゃまつり》の強飯の馳走に与《あず》かろうとは、全くその時まで夢にも予想していなかったのだ。
 踊子の栄子と大道具の頭《かしら》の家族が住んでいた家は、商店の賑かにつづいた、いつも昼夜の別なくレコードの流行歌が騒々しく聞える千束町を真直《まっすぐ》に北へ行き、横町の端《はず》れに忽然《こつぜん》吉原遊廓の家と灯とが鼻先に見えるあたりの路地裏にあった。或晩舞台で稽古に夜をふかしての帰り道
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