、わたくしと娘とはいつものやうに、いつもの道を行かうとしたが、二足三足踏み出すが早いか、雪は忽ち下駄の歯にはさまる。風は傘を奪はうとし、吹雪は顔と着物を濡らす。然し若い男や女が、二重廻やコートや手袋襟巻に身を粧ふことは、まだ許されてゐない時代である。貧家に育てられたらしい娘は、わたくしよりも悪い天気や時候には馴れてゐて、手早く裾をまくり上げ足駄を片手に足袋はだしになつた。傘は一本さすのも二本さすのも、濡れることは同じだからと言つて、相合傘の竹の柄元《えもと》を二人で握りながら、人家の軒下をつたはり、つたはつて、やがて彼方に伊予橋、此方に大橋を見渡すあたりまで来た時である。娘は突然つまづいて、膝をついたなり、わたくしが扶け起さうとしても容易には立上れなくなつた。やつとの事立上つたかと思ふと、またよろよろと転びさうになる。足袋はだしの両脚とも凍りきつて、しびれてしまつたらしい。
 途法にくれてあたりを見る時一吹雪の中にぼんやり蕎麦屋の灯が見えた嬉しさ。湯気の立つ饂飩の一杯に、娘は直様元気づき、再び雪の中を歩きつゞけたが、わたくしはその時、ふだん飲まない燗酒を寒さしのぎに、一人で一合あまり飲んでしまつたので、歩くと共におそろしく酔が廻つて来る。さらでも歩きにくい雪の夜道の足元が、いよ/\危くなり、娘の手を握る手先がいつかその肩に廻される。のぞき込む顔が接近して互の頬がすれ合ふやうになる。あたりは高座で噺家がしやべる通り、ぐる/\ぐる/\廻つてゐて、本所だか、深川だか、処は更に分らぬが、わたくしは兎角する中、何かにつまづきどしんと横倒れに転び、やつとの事娘に抱き起された。見ればおあつらひ通りに下駄の鼻緒が切れてゐる。道端に竹と材木が林の如く立つてゐるのに心付き、その陰に立寄ると、こゝは雪も吹込まず風も来ず、雪あかりに照された道路も遮られて見えない別天地である。いつも継母に叱られると言つて、帰りをいそぐ娘もほつと息をついて、雪にぬらされた銀杏返の鬢を撫でたり、袂をしぼつたりしてゐる。わたくしはいよ/\前後の思慮なく、唯酔の廻つて来るのを知るばかりである。二人の間に忽ち人情本の場面が其のまゝ演じ出されるに至つたのも、怪しむには当らない。
 あくる日、町の角々に雪達磨ができ、掃寄せられた雪が山をなしたが、間もなく、その雪だるまも、その山も、次第に解けて次第に小さく、遂に跡かたもなく、道はすつかり乾いて、もとのやうに砂ほこりが川風に立迷ふやうになつた。正月は早くも去つて、初午の二月になり、師匠むらくの持席《もちせき》は、常磐亭から小石川|指ヶ谷町《さすがやちやう》の寄席にかはつた。そしてかの娘はその月から下座をやめて高座へ出るやうになつて、小石川の席へは来なくなつた。帰りの夜道をつれ立つて歩くやうな機会は再び二人の身には廻つては来なかつた。
 娘の本名はもとより知らず、家も佐竹とばかりで番地もわからない。雪の夜の名残は消え易い雪のきえると共に、痕もなく消去つてしまつたのである。

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巷《ちまた》に雨のふるやうに
わが心にも雨のふる
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といふ名高いヴヱルレーヌの詩に傚つて、若しもわたくしが其国の言葉の操《あやつ》り方《かた》を知つてゐたなら、

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巷に雪のつもるやう
憂《うれ》ひはつもるわが胸に
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或はまた

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巷に雪の消ゆるやう
思出は消ゆ痕もなく
………………………
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とでも吟じたことであらう。



底本:「日本の名随筆51 雪」作品社
   1987(昭和62)年1月25日第1刷発行
   1999(平成11)年2月25日第10刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十七巻」岩波書店
   1964(昭和39)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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