たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在ますと言ふのに、やゝ腰を据ゑ、

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舟なくば雪見がへりのころぶまで
舟足を借りておちつく雪見かな
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 その頃、何や彼や書きつけて置いた手帳は、その後いろ/\な反古《ほご》と共に、一たばねにして大川へ流してしまつたので、今になつては雪が降つても、その夜のことは、唯人情のゆるやかであつた時代と共に、早く世を去つた友達の面影がぼんやり記憶に浮んで来るばかりである。
      ○
 雪もよひの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒い山鳩の来た日を思出すのである。
 父は既に世を去つて、母とわたくしと二人ぎり広い家にゐた頃である。母は霜柱の昼過までも解けない寂しい冬の庭に、折々山鳩がたつた一羽どこからともなく飛んで来るのを見ると、あの鳩が来たからまた雪が降るでせうと言はれた。果して雪がふつたか、どうであつたか、もう能くは覚えてゐないが、その後も冬になると折々山鳩の庭に来たことだけは、どういふわけか、永くわたくしの記憶に刻みつけられてゐる。雪もよひの冬の日、暮方ちかくなる時の、つかれて沈みきつた寂しい心持。その日/\に忘られて行くわけもない物思はしい心持が、年を経て、またわけもなく追憶の悲しさを呼ぶがためかも知れない。
 その後三四年にしてわたくしは牛込の家を売り、そこ此処と市中の借家に移り住んだ後、麻布に来て三十年に近い月日をすごした。無論母をはじめとして、わたくしには親しかつた人達の、今は一人としてこの世に生残つてゐやう筈はない。世の中は知らない人達の解しがたい議論、聞馴れない言葉、聞馴れない物音ばかりになつた。然しそのむかし牛込の庭に山鳩のさまよつて来た時のやうな、寒い雪もよひの空は、今になつても、毎年冬になれば折々わたくしが寐てゐる部屋の硝子窓を灰色にくもらせる事がある。
 すると、忽あの鳩はどうしたらう。あの鳩はむかしと同じやうに、今頃はあの古庭の苔の上を歩いてゐるかも知れない………と月日の隔てを忘れて、その日のことがあり/\と思返されてくる。鳩が来たから雪がふりませうと言はれた母の声までが、どこからともなく、かすかに聞えてくるやうな気がしてくる。
 回想は現実の身を夢の世界につれて行き、渡ることのできない彼岸を望む時の絶望と悔恨との淵に人の身を投込む………。回想は歓喜と愁歎との両面を持つてゐる謎の女神であらう。
      ○
 七十になる日もだん/\近くなつて来た。七十といふ醜い老人になるまで、わたくしは生きてゐなければならないのか知ら。そんな年まで生きてゐたくない。と云つて、今夜眼をつぶつて眠れば、それがこの世の終だとなつたなら、定めしわたくしは驚くだらう。悲しむだらう。
 生きてゐたくもなければ、死にたくもない。この思ひが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没してゐる雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明くもならず、唯しんみりと黄昏《たそが》れて行く雪の日の空に似てゐる。
 日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩かれ早かれ来ねばならぬ。
 生きてゐる中、わたくしの身に懐しかつたものはさびしさであつた。さびしさの在つたばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があつた。死んだなら、死んでから後にも薄いながらに、わたくしは色彩がほしい。さう思ふと、生きてゐた時、その時、その場の恋をした女達、わかれた後忘れてしまつた女達に、また逢ふことの出来るのは瞑《くら》いあの世のさむしい河のほとりであるやうな気がしてくる。
 あゝ、わたくしは死んでから後までも、生きてゐた時のやうに、逢へば別れる、わかれのさびしさに泣かねばならぬ人なのであらう………。
      ○
 薬研堀がまだ其のまゝ昔の江戸絵図にかいてあるやうに、両国橋の川しも、旧米沢町《もとよねざはちやう》の河岸まで通じてゐた時分である。東京名物の一銭蒸汽の桟橋につらなつて、浦安通ひの大きな外輪《そとわ》の汽船が、時には二艘も三艘も、別の桟橋につながれてゐた時分の事である。
 わたくしは朝寐坊むらくといふ噺家《はなしか》の弟子になつて一年あまり、毎夜市中諸処の寄席に通つてゐた事があつた。その年正月の下半月《しもはんつき》、師匠の取席《とりせき》になつたのは、深川高橋の近くにあつた、常磐町《ときはちやう》の常磐亭であつた。
 毎日午後に、下谷御徒町にゐた師匠むらくの家に行き、何やかやと、その家の用事を手つだひ、おそくも四時過には寄席の楽屋に行つてゐなければならない。その刻限になると、前座《ぜんざ》の坊主が楽屋に来るが否や、どこどん/\と楽屋の太鼓を叩きはじめる。表口では下足番の男がその前から通りがゝりの人を見て、入らつしやい、入らつしやいと腹の中か
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