って一年あまり、毎夜市中諸処の寄席《よせ》に通っていた事があった。その年正月の下半月《しもはんつき》、師匠の取席《とりせき》になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町《ときわちょう》の常磐亭であった。
 毎日午後に、下谷御徒町《したやおかちまち》にいた師匠むらくの家に行き、何やかやと、その家の用事を手つだい、おそくも四時過には寄席の楽屋に行っていなければならない。その刻限になると、前座《ぜんざ》の坊主が楽屋に来るが否や、どこどんどんと楽屋の太鼓《たいこ》を叩きはじめる。表口では下足番《げそくばん》の男がその前から通りがかりの人を見て、入《い》らっしゃい、入らっしゃいと、腹の中から押出すような太い声を出して呼びかけている。わたくしは帳場《ちょうば》から火種を貰って来て、楽屋と高座の火鉢に炭火をおこして、出勤する芸人の一人一人楽屋入するのを待つのであった。
 下谷から深川までの間に、その頃乗るものといっては、柳原を通う赤馬車と、大川筋の一銭蒸汽があったばかり。正月は一年中で日の最も短い寒《かん》の中《うち》の事で、両国から船に乗り新大橋で上り、六間堀《ろっけんぼり》の横町へ来かかる頃には、立迷う夕靄《ゆうもや》に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家には灯がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、木橋をわたる人の下駄《げた》の音が、場末の町のさびしさを伝えている。
 忘れもしない、その夜の大雪は、既にその日の夕方、両国の桟橋で一銭蒸汽を待っていた時、ぷいと横面《よこつら》を吹く川風に、灰のような細《こまか》い霰《あられ》がまじっていたくらいで、順番に楽屋入をする芸人たちの帽子や外套には、宵《よい》の口から白いものがついていた。九時半に打出し、車でかえる師匠を見送り、表通へ出た時には、あたりはもう真白で、人ッ子ひとり通りはしない。
 太鼓を叩く前座の坊主とは帰り道がちがうので、わたくしは毎夜|下座《げざ》の三味線をひく十六、七の娘――名は忘れてしまったが、立花家橘之助《たちばなやきつのすけ》の弟子で、家は佐竹ッ原だという――いつもこの娘と連立って安宅蔵《あたけぐら》の通を一ツ目に出て、両国橋をわたり、和泉橋際《いずみばしきわ》で別れ、わたくしはそれから一人とぼとぼ柳原から神田を通り過ぎて番町《ばんちょう》の親の家へ、音のしないように裏門から忍び込むのであった。
 毎夜連れ立って、ふけそめる本所《ほんじょ》の町、寺と倉庫の多い寂しい道を行く時、案外暖く、月のいい晩もあった。溝川の小橋をわたりながら、鳴き過る雁の影を見送ることもあった。犬に吠えられたり、怪しげな男に後をつけられて、二人ともども息を切って走ったこともあった。道端に荷をおろしている食物売《たべものうり》の灯《あかり》を見つけ、汁粉《しるこ》、鍋焼饂飩《なべやきうどん》に空腹をいやし、大福餅や焼芋に懐手をあたためながら、両国橋をわたるのは殆《ほとんど》毎夜のことであった。しかしわたくしたち二人、二十一、二の男に十六、七の娘が更《ふ》け渡る夜の寒さと寂しさとに、おのずから身を摺《す》り寄せながら行くにもかかわらず、唯の一度も巡査に見咎《みとが》められたことがなかった。今日、その事を思返すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑《さいぎ》と羨怨《せんえん》の眼が今日ほど鋭くひかり輝いていなかったのである。
 その夜、わたくしと娘とはいつものように、いつもの道を行こうとしたが、二足三足踏み出すが早いか、雪は忽《たちま》ち下駄《げた》の歯にはさまる。風は傘を奪おうとし、吹雪《ふぶき》は顔と着物を濡らす。しかし若い男や女が、二重廻《にじゅうまわし》やコートや手袋《てぶくろ》襟巻《えりまき》に身を粧《よそお》うことは、まだ許されていない時代である。貧家に育てられたらしい娘は、わたくしよりも悪い天気や時侯には馴れていて、手早く裾《すそ》をまくり上げ足駄《あしだ》を片手に足袋《たび》はだしになった。傘は一本さすのも二本さすのも、濡れることは同じだからと言って、相合傘《あいあいがさ》の竹の柄元《えもと》を二人で握りながら、人家の軒下をつたわり、つたわって、やがて彼方《かなた》に伊予橋、此方《こなた》に大橋を見渡すあたりまで来た時である。娘は突然つまずいて、膝をついたなり、わたくしが扶《たす》け起そうとしても容易には立上れなくなった。やっとの事立上ったかと思うと、またよろよろと転びそうになる。足袋はだしの両脚とも凍りきって、しびれてしまったらしい。
 途法《とほう》にくれてあたりを見る時、吹雪の中にぼんやり蕎麦屋《そばや》の灯が見えた嬉しさ。湯気の立つ饂飩の一杯に、娘は直様《すぐさま》元気づき、再び雪の中を歩きつづけたが、わたくしはその時、ふだん飲ま
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