ゅうしゅう》に耽ったのもこの時分が最も盛であった。
浮世絵の事をここに一言したい。わたくしが浮世絵を見て始て芸術的感動に打たれたのは亜米利加《アメリカ》諸市の美術館を見巡《みまわ》っていた時である。さればわたくしの江戸趣味は米国好事家の後塵《こうじん》を追うもので、自分の発見ではない。明治四十一年に帰朝した当時浮世絵を鑑賞する人はなお稀であった。小島烏水《こじまうすい》氏はたしか米国におられたので、日本では宮武外骨《みやたけがいこつ》氏を以てこの道の先知者となすべきであろう。東京市中の古本屋が聯合《れんごう》して即売会を開催したのも、たしか、明治四十二、三年の頃からであろう。
大正三、四年の頃に至って、わたくしは『日和下駄《ひよりげた》』と題する東京散歩の記を書き終った。わたくしは日和下駄をはいて墓さがしをするようになっては、最早《もはや》新しい文学の先陣に立つ事はできない。三田《みた》の大学が何らの肩書もないわたくしを雇《やと》って教授となしたのは、新文壇のいわゆるアヴァンガルドに立って陣鼓《タンブール》を鳴らさせるためであった。それが出来なくなればわたくしはつまり用のない人にな
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