正宗谷崎両氏の批評に答う
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)勢《いきおい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小説|及《および》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+闌」、第4水準2−88−83]
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 去年の秋、谷崎君がわたくしの小説について長文の批評を雑誌『改造』に載せられた時、わたくしはこれに答える文をかきかけたのであるが、勢《いきおい》自作の苦心談をれいれいしく書立てるようになるので、何となく気恥かしい心持がして止《よ》してしまった。然るにこの度は正宗君が『中央公論』四月号に『永井荷風論』と題する長文を掲載せられた。
 わたくしは二家の批評を読んで何事よりもまず感謝の情を禁じ得なかった。これは虚礼の辞ではない。十年前であったなら、さほどまでにうれしいとは思わなかったかも知れない。しかし今は時勢に鑑《かんが》みまた自分の衰老を省みて、今なおわたくしの旧著を精読して批判の労を厭《いと》わない人があるかと思えば満腔《まんこう》唯感謝の情を覚ゆるばかりである。知らぬ他国で偶然同郷の人に邂逅《かいこう》したような心持がしたのである。
 かつて大正十五年の春にも正宗君はわたくしの小説|及《および》雑著について批評せられたことがあった。その時わたくしは弁駁《べんばく》の辞をつくったが、それは江戸文学に関して少しく見解を異にしているように思ったからで、わたくしは自作の小説については全く言う事を避けた。自作について云々するのはどうも自家弁護の辞を弄するような気がして書きにくかった故である。わたくしが個人雑誌『花月』の誌上に、『かかでもの記』を掲げて文壇の経歴を述べたのは今より十五、六年以前であるが、初は『自作自評』と題して旧作の一篇ごとに執筆の来由を陳《の》べ、これによって半面はおのずから自叙伝ともなるようにしたいと考えた。しかしそれもあまり自家吹聴に過るような気がして僅に『かかでもの記』三、四回を草して筆を擱《お》いた。
 谷崎君は、さきに西鶴と元禄時代の文学を論じ、わたくしを以て紅葉先生と趣を同じくしている作家のように言われた。事の何たるを問わず自分の事をはっきり自分で判断することは至難である。谷崎君が批判の当れるや否やはこれを第三者に問うより外はない。紅葉先生は硯友社《けんゆうしゃ》諸先輩の中《うち》わたくしには最も親しみが薄いのである。外国語学校に通学していた頃、神田の町の角々《かどかど》に、『読売新聞』紙上に『金色夜叉《こんじきやしゃ》』が連載せられるという予告が貼出《はりだ》されていたのを見たがしかしわたくしはその当時にはこれを読まなかった。啻《ただ》に『金色夜叉』のみならず紅葉先生の著作は、明治三十四、五年の頃友人に勧められて一括してこれを通読する日まで、わたくしは殆どこれを知らずにいた位である。これも別に確然たる意見があったわけではない。その頃の書生は新刊の小説や雑誌を購読するほどの小使銭を持っていなかったので、読むに便宜のない娯楽の書物には自然遠ざかっていた。わたくしの家では『時事新報』や『日々新聞』を購読していたが『読売』の如きものは取っていなかった。馬琴《ばきん》春水《しゅんすい》の物や、『春雨物語』、『佳人の奇遇』のような小説類は沢山あったが、硯友社作家の新刊物は一冊もなかった。わたくしが中学生の頃初め漢詩を学びその後近代の文学に志を向けかけた頃、友人|井上唖々《いのうえああ》子が『今戸心中《いまどしんじゅう》』所載の『文芸倶楽部《ぶんげいクラブ》』と、緑雨《りょくう》の『油地獄』一冊とを示して頻《しきり》にその妙処を説いた。これが後日わたくしをして柳浪《りゅうろう》先生の門に遊ばしめた原因である。しかしその後幾星霜を経て、大正六、七年の頃、わたくしは明治時代の小説を批評しようと思って硯友社作家の諸作を通覧して見たことがあったが、その時分の感想では露伴《ろはん》先生の『※[#「言+闌」、第4水準2−88−83]言長語《らんげんちょうご》』と一葉《いちよう》女史の諸作とに最《もっとも》深く心服した。緑雨の小説随筆はこれを再読した時、案外に浅薄でまた甚《はなはだ》厭味《いやみ》な心持がした。わたくしは今日に至っても露伴先生の『※[#「言+闌」、第4水準2−88−83]言長語』の二巻を折々|繙《ひもと》いている。
 大正以前の文学には、今日におけるが如く江戸趣味なる語に特別の意味はなかった。もしこの語を以て評すれば露伴先生の文はけだし江戸趣味の極めて深遠なるもので、また古今を通じて随筆の冠冕《かんべん》となすべきものである。『世に忘れられたる草
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