て『苦悩する土耳古』と題する一書を著《あらわ》し悲痛の辞を連ねている。日本と仏蘭西とは国情を異にしている。大正改元の頃にはわたくしも年三十六、七歳に達したので、一時の西洋かぶれも日に日に薄らぎ、矯激なる感動も年と共に消えて行った。その頃偶然|黒田清輝《くろだきよてる》先生に逢ったことがあるが「君も今の中《うち》に早く写真をうつして置け。」と戯《たわむれ》に言われたのを、わたくしは今に忘れない。日本の風土気候は人をして早く老いさせる不可思議な力を持っている。わたくしは専《もっぱら》これらの感慨を現すために『父の恩』と題する小説をかきかけたが、これさえややもすれば筆を拘束される事が多かったので、中途にして稿を絶った。わたくしはふと江戸の戯作者また浮世絵師等が幕末国難の時代にあっても泰平の時と変りなく悠々然《ゆうゆうぜん》として淫猥《いんわい》な人情本や春画をつくっていた事を甚《はなはだ》痛快に感じて、ここに専《もっぱら》花柳小説に筆をつける事を思立った。『新橋夜話《しんきょうやわ》』または『戯作者《げさくしゃ》の死』の如きものはその頃の記念である。浮世絵|並《ならび》に江戸出版物の蒐集《しゅうしゅう》に耽ったのもこの時分が最も盛であった。
 浮世絵の事をここに一言したい。わたくしが浮世絵を見て始て芸術的感動に打たれたのは亜米利加《アメリカ》諸市の美術館を見巡《みまわ》っていた時である。さればわたくしの江戸趣味は米国好事家の後塵《こうじん》を追うもので、自分の発見ではない。明治四十一年に帰朝した当時浮世絵を鑑賞する人はなお稀であった。小島烏水《こじまうすい》氏はたしか米国におられたので、日本では宮武外骨《みやたけがいこつ》氏を以てこの道の先知者となすべきであろう。東京市中の古本屋が聯合《れんごう》して即売会を開催したのも、たしか、明治四十二、三年の頃からであろう。
 大正三、四年の頃に至って、わたくしは『日和下駄《ひよりげた》』と題する東京散歩の記を書き終った。わたくしは日和下駄をはいて墓さがしをするようになっては、最早《もはや》新しい文学の先陣に立つ事はできない。三田《みた》の大学が何らの肩書もないわたくしを雇《やと》って教授となしたのは、新文壇のいわゆるアヴァンガルドに立って陣鼓《タンブール》を鳴らさせるためであった。それが出来なくなればわたくしはつまり用のない人にな
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