水のながれ
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)卜居《ぼくきょ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)以前|麻布《あざぶ》
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戦争後、市川の町はずれに卜居《ぼくきょ》したことから、以前|麻布《あざぶ》に住んでいた頃よりも東京へ出るたびたび隅田川《すみだがわ》の流れを越して浅草の町々を行過る折が多くなったので、おのずと忘れられたその時々の思出を繰返して見る日もまた少くないようになった。
隅田川両岸の眺めがむかしとは全然変ってしまったのは、大正十二年九月震災の火で東京の市街が焼払われてから後《のち》の事で、それまでは向嶋《むこうじま》にも土手があって、どうにか昔の絵に見るような景色を見せていた。三囲稲荷《みめぐりいなり》の鳥居が遠くからも望まれる土手の上から斜に水際に下《おり》ると竹屋《たけや》の渡しと呼ばれた渡場《わたしば》の桟橋《さんばし》が浮いていて、浅草の方へ行く人を今戸《いまど》の河岸《かわぎし》へ渡していた。渡場はここばかりでなく、枕橋《まくらばし》の二ツ並んでいるあたりからも、花川戸《はなかわど》の岸へ渡る船があったが、震災後|河岸通《かしどおり》の人家が一帯に取払われて今見るような公園になってから言問橋《ことといばし》が架《か》けられて、これは今戸へ通う渡しと共に廃止された。上流の小松島から橋場《はしば》へわたる渡船も大正の初めには早く白鬚橋《しらひげばし》がかけられて乗る人がなくなったので、現在では隅田川に浮ぶ渡船はどこを眺めても見られなくなった。
わたくしはこれらの渡船の中で今戸の渡しを他処《たしょ》のものより最も興味深く思返さねばならない。何故かというと、この渡場は今戸橋の下を流れる山谷堀《さんやぼり》の川口に近く、岸に上《あが》るとすぐ目の前に待乳山《まつちやま》の堂宇と樹木が聳《そび》えていた故である。しかしこの堂宇は改築されて今では風致に乏しいものとなり、崖の周囲に茂っていた老樹もなくなり、岡の上に立っていた戸田茂睡《とだもすい》の古碑《こひ》も震災に砕かれたまま取除《とりの》けられてしまったので、今日では今戸橋からこの岡を仰いで、「切凧《きれだこ》の夕《ゆう》越え行くや待乳山」の句を思出しても、むかし味ったようなこの辺《あたり》の町の幽雅な趣を思返すことは出来ない。むかし待乳山の岡の下には一条《ひとすじ》の細い町があって両側に並んでいる店付の質素な商店の中には、今戸焼の陶器や川魚の佃煮《つくだに》を売る店があって、この辺一帯の町を如何にも名所らしく思わせていたが、今はセメントで固めた広い道路となってトラックが砂烟《すなけむり》を立てて走っている。また今戸橋の向岸には慶養寺《けいようじ》という古寺があってここにも樹木が生茂《おいしげ》っていたが、今はもう見られないので、震災前のむかしを知らない人たちには何の趣もない場末の道路としか見られないようになったのも尤《もっとも》である。平坦な道路は山谷堀の流に沿うて吉原の土手をも同じような道路にしたのみならずその辺に残っていた寺々をも大抵残るものなく取払ってしまった。むかしからの伝説は全く消滅して残る処は一ツもない。
今戸橋をわたると広い道路は二筋に分れ、一ツは吉野橋をわたって南千住《みなみせんじゅ》に通じ、一ツは白鬚橋の袂《たもと》に通じているが、ここに瓦斯《ガス》タンクが立っていて散歩の興味はますますなくなるが、むかしは神明神社の境内《けいだい》で梅林もあり、水際には古雅な形の石燈籠《いしどうろう》が立っていたが、今は石炭を積んだ荷船《にぶね》が幾艘《いくそう》となく繋《つなが》れているばかり、橋向《はしむこう》にある昔ながらの白鬚神社や水神《すいじん》の祠《ほこら》の眺望までを何やら興味のないものにしているのも無理はない。向嶋の堤防はこの辺までも平に地ならしされて、同じように自働車やトラックの疾走する処にしている。百花園《ひゃっかえん》は白鬚神社の背後にあるが、貧し気な裏町の小道を辿って、わざわざ見に行くにも及ばぬであろう。むかし土手の下にささやかな門をひかえた長命寺《ちょうめいじ》の堂宇も今はセメント造《づくり》の小家《こいえ》となり、境内の石碑は一ツ残らず取除かれてしまい、牛《うし》の御前《ごぜん》の社殿は言問橋《ことといばし》の袂に移されて人の目にはつかない。かくの如く向嶋の土手とその下にあった建物や人家が取払われて、その跡が現在見るような、向嶋公園と呼ばれる平坦な空地になったのだ。これは荒川の河流が放水路の開通と共に、如何に険悪な天侯にも決して汎濫《はんらん》する恐れがなくなったためかとも思われる。吉原の遊廓外《くるわそと》にあった日本堤《にほんづつみ》の取崩されて平かな道路になっ
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