ノ開かれたのは実に松山画伯の AU PRINTEMPS を以て嚆矢《こうし》となすが故である。当時都下に洋酒と洋食とを鬻ぐ店舗はいくらもあった。又カウンターに倚《よ》りかかって火酒を立飲する亜米利加風の飲食店も浅草公園などには早くから在ったようであるが、然し之を呼ぶにカッフェーの名を以てしたものは一軒もなかった。カッフェーの名の行われる以前、この種類の飲食店は皆ビーヤホールと呼ばれていた。されば松山画伯の飲食店は其の実に於ては或は創設の功を担わしめるには足りないかも知れぬが、其の名に於ては確に流布の功があった。当時都人の中にはカッフェーの義の何たるかを知らず、又これを呼ぼうとしても正確にFの音を発することのできない者も鮮くなかった。然るに二十年後の今日に到っては日本全国ビーヤホールの名を掲げて酒を估《う》る店は一軒もなく、※[#「にんべん+倉」、第4水準2−1−77]父《そうふ》も滑《なめらか》に 〔Cafe'〕 の発音をなし得るようになった。
 さればカッフェーの創設者たる松山画伯にして、狡智に長《た》けたること、若しかの博文館が二十年前に出版した書物の版権を、今更云々して賠償金を取立
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