前後を忘れるまでに狼狽した。殊にその日は博文館との掛合で、いつもより人の出入の多そうに思われる折とて、何はさて置きお民の姿を玄関先から隠したいばかりに、僕はお民を一室に通すや否や、すぐにその来意を問うとお民は長い袂をすくい上げるように膝の上に載せ、袋の底から物をたぐり出すように巻煙草入を取出し、
「わたし、御存じでしょうけれど、もう銀座はやめにしました。」
「そうだそうですね。この間友達から聞きました。」と僕はそれとなく女の様子を窺いながら次の言葉を待った。するとお民は一向気まりのわるい風もせず、
「きょうはすこしお願いしたいことがあるんです。」と落ちつき払って切り出した。其様子から物言いまで曾てカッフェーにいた時分、壁や窓に倚りかかって、其の辺に置いてある植木の葉をむしり取って、噛んでは吐《は》きだしながら冗談を言っていた時とは、まるで別の人になっている。僕はさてこそと、変化《へんげ》の正体を見届けたような心持で、覚えず其顔を見詰めると、お民の方でもじろりと僕の顔を尻目《しりめ》にかけて壁の懸物へと視線をそらせたが、その瞬間僕の目に映じたお民の容貌の冷静なことと、平生から切長の眼尻に
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