ある。
ここに最奇怪の念に堪えなかったのは、其等無頼の徒に対して給仕女が更に恐るる様子のないことであった。殊にお民は寧《むしろ》心やすい様子で、一人一人に其姓名を挙げ、「誰々さんとはライオン時代からよく知っているのよ。あの人はあれでもほんとの文士なのよ。翻訳家なのよ。やっぱり郊外にいるから電車の中でもちょいちょい逢う事があるのよ。お酒はよくないらしいわね。」などと言って、僕等が其の無礼なことを語った時には、それとなく弁護するような語調を漏らしたことさえあった。お民は此のカッフェーの給仕女の中では文学|好《ず》きだと言われていた。生田さんが或時「今まで読んだものの中で何が一番面白かったか。」ときくと、お民はすぐに「カラマゾフ兄弟だ。」と答えたことがあった。僕はその時お民の語には全く注意していなかった。僕は最初からカッフェーに働いている女をば、その愚昧なことは芸者より甚しいものと独断していたからである。又文学好きだと言われる婦人は、平生文学書類を手にだもしない女に比すれば却て智能に乏しく、其趣味は遥に低いものだと思っていたからである。然し此等の断定の当っていなかった事は、やがて僕等一同が
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