紙を見る時の心持と変りはない。一代の趣味も渾然として此処まで堕落してしまって、又如何ともすることの出来ぬものに成り了《おわ》ってしまうと、平生世間外に孤立している傍観者には却て一種奇異なる興味と薄い気味悪さとを覚えさせるようになる。
 僕は銀座街頭に於て目撃する現代婦女の風俗をたとえて、石版摺の雑誌表紙絵に均しきものとなした。それはまた化学的に製造した色付葡萄酒の味にも似ている。日光の廟門を模擬した博覧会場の建築物にも均しい。菊人形の趣味に一層の俗悪を加えたものである。斯くの如き傾向はいつの時に其の源を発したか。混沌たる明治文明の赴くところは大正年間十五年の星霜を経由して遂にこの風俗を現出するに至ったものと看るより外はない。一たび考察をここに回《めぐ》らせば、世態批判の興味の勃然として湧来るを禁じ得ない。是僕をして新聞記者の中傷を顧みず泰然としてカッフェーの卓子に倚《よ》らしめた理由の第四である。
 僕のしばしば出入したカッフェーには給仕の女が三十人あまり、肩揚のある少女が十人あまり。酒場の番をしている男が三四人、帳簿係の女が五六人、料理人が若干人、事務員が二三人。是等の人達の上に立って営業の事務一切を掌る支配人が一人、其助手が一人あった。数え来れば少からぬ人員となる。是の人員が一団をなして業を営む時には、ここに此の一団固有の天地の造り出されるのは自然の勢である。同じ銀座通に軒を連ねて同じ営業をしていても、其店々によって店の風がちがって来ることになる。店の風がちがえば客の種類もちがって来る。ここに於てか世態観察の興味は一層加わるわけである。
 凡物にして進化の経程を有せざるはない。市井の風俗を観察する方法にも同じく進化の道がある。江戸時代に在っては山東京伝は吉原妓楼の風俗の家毎に差別のあった事を仔細に観察して数種の蒟蒻本を著した。傾城買四十八手傾城※[#「金+攜のつくり」、161−12]の如きは其の冠たるものであろう。京伝等江戸の戯作者の好んで為した市井風俗の観察は多く支那の艶史より学び来ったものである。されば寛政以降漢文の普及せらるるに及んで、寺門静軒は江戸繁昌記を著し、踵いで成島柳北は柳橋新誌を作った。京伝一派の蒟蒻本は文化年代に夙《はや》く其跡を絶っていたが、静軒の筆致を学ぶものは明治年間に至るも猶絶えず、服部撫松は柳巷新史を著し、松本万年は新橋雑記をつくり、三木愛花に及んで此の種の艶史は遂に終を告げた。
 僕はカッフェーの卓子に憑《よ》って目には当世婦女の風俗を観、心には前代名家の文章を想い起すや、喟然《きぜん》としてわが文藻の乏しきを悲しまなければならない。泰西に在っては詩人ミュッセが「ミミイパンソンの晴衣裳」の如き、早くより世人の伝唱して措かざるもの。ウェルレーンの詩集も亦カッフェーの光景を詠じた佳什に乏しくない。
 昭和紀元の冬、銀座通に在ったカッフェーにして、殊に給仕女の※[#「靜のへん+見」、第3水準1−93−75]粧《せいしょう》の人目を牽いたものは、ライオン、タイガー、ギンブラ、バッカス、松月、孔雀の如き名を以て呼ばれた店である。此等のカッフェーの光景と給仕女の評判記に至っては現代の雑誌新聞の紙面を埋むる好資料である。既に「騒人」と称する文学雑誌の如きは、カッフェー特別号なるものを編纂し、文芸諸名士のカッフェーに関する名文を網羅して全冊を埋めていた。されば菲才僕の如きものが、今更カッフェーについて舛駁《せんばく》なる文をつくるのは、屋下に屋を架する笑いを招くばかりであろう。
 僕は平生見聞する事物の中、他日小説の資料になるらしく思われる事があると、手帳にこれを書き留めて置く。一日の天気模様でも、月の夜に虹が出たり、深夜の空に彗星が顕れたりすると、之も同じくその見たままを書き留めて置く。これ等は啻《ただ》に小説執筆の際叙景の資料になるのみならず、古人の書を読む時にも案外やくに立つことがある。僕は曾て木氷というものを見たことがあった。木氷とは樹木の枝に滴る雨の雫が突然の寒気に凍って花の咲いたように見えるのを謂うのである。僕は初木氷の名も知らず、亦これが詩人の喜んで瑞兆となすものであることも知らなかったが、近年に至ってたまたま大窪詩仏の集を読むに及んで始て其等の次第を審にしたのである。
 僕が銀座のカッフェーに関して手帳に覚書をして置いたことも尠くはない。左に之を抄録して読者の一※[#「口+據のつくり」、第3水準1−15−24]に供しよう。
「某月某日晩涼ヲ追テ杖ヲ銀座街ニ曳ク。夜市ノ燈火白昼ノ如ク、遊歩ノ男女肩ヲ摩シ踵ヲ接ス。夜熱之ガ為ニ卻テ炎々タリ。避ケテ一酒肆に[#「酒肆に」はママ]入ル。洋風ノ酒肆ニシテ、時人ノ呼ンデカツフヱート称スルモノ即是ナリ。カツフヱーノ語ハモト仏蘭西ヨリ起ル。邦人妄ニ之ヲ借リ来ツ
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