ほどに堅く引合せ、帯は出来るだけ胸高にしめているのに較べると、お民一人の様子は却て目に立った所から、此のカッフェーに出入するお客からは忽江戸風だとか芸者風だとか言われるようになった。大分心やすくなってから、僕達の問に答えて、お民の語ったところを聞くのに、お民は矢張その様子にたがわず東京の下町に生れた者であった。
「わたし、生れたのは薬研堀ですわ。お父《とッ》つァんはとうに死んじまいました。」
 僕は薬研堀と聞いて、あの辺に楊弓場のあったことを知っているかと問うて見たが、お民は知らないと答えた。広小路に福本亭という講釈場のあった事や、浅草橋手前に以呂波という牛肉屋のあった事などもきいて見たが、それもよく覚えていないようであった。日露戦争の頃に生れた娘には、その生れた町のはなしでも僕の言うことは少し時代が古過ぎたのであろう。現在はどこに住んでいるかときくと、
「兄さんや母《おっか》さんと一緒に東中野にいます。母《おっか》さんはむかし小石川の雁金屋さんとかいう本屋に奉公していたって云うはなしだワ。」と言った。
 雁金屋は江戸時代から明治四十年頃まで小石川安藤坂上に在った名高い書林青山堂のことである。此のはなしは其日僕が恰東仲通の或貸席に開かれた古書売立の市で漢籍を買って、その帰途に立寄った時、お民が古本を見て急に思出したように語ったことである。
 お民は父母のことを呼ぶに、当世の娘のように、「おとうさん、おかあさん」とは言わず「おっかさん、おとッつァん」と言う。僕の見る所では、これは東京在来の町言葉で、「おとうさん」と云い、「おかアさん」と云い、或は略して、「とうさん、かアさん」と云うのは田舎言葉から転化して今は一般の通用語となったものである。薗八節の鳥辺山に「ととさんやかかさんのあるはお前も同じこと」という詞がある。されば「とうさん、かアさん」の語は関西地方のものであろうか。近年に至って都下花柳の巷には芸者が茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで「とうさん」となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽《はいたい》も亦極れりと謂うべきである。因《ちなみ》にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」と言うように教えられていた。これは僕の家が尾張藩の士分であった故でもあろうか。其の由来を審にしない。
 お民は談話が興に乗ってくると、「アノあたいが」と言いかけて、笑いながら「わたしが」と言い直すことがある。お民の言葉使には一体にわざとらしいまでに甘ったれた調子が含まれている。二十六の女とは思われぬ程小娘らしい調子があるが、これは左右の糸切歯が抜けていて、声が漏れるためとも思われるし、又職業柄わざと舌ッたるくしているのだとも思われた。話しながら絶えず身体をゆすぶり、一語《ひとこと》一語《ひとこと》に手招ぎするような風に手を動す癖がある。見馴れるに従ってカッフェーの女らしいところはいよいよなくなって、待合か日本料理屋の女中のような気がしてくるのであった。
「お民、お前、どこか末広のような所にいたことはないのか。」と僕等の中の一人がきいた事がある。するとお民は赤坂の或待合に女中をしていたことがあると答えたので僕は心窃に推測の違っていなかった事を誇ったような事もあった。
 だんだん心やすくなるにつれて、お民の身の上も大分明かになって来た。お民の兄は始め芸者を引かせて内に入れたが、間もなく死別れて、二度目は田舎から正式に妻を迎え一時神田辺で何か小売商店を営んでいたところ、震災後商売も次第に思わしからず、とうとう店を閉じて郡部へ引移り或会社に雇われるような始末に、お民は兄の家の生計を助けるために始てライオンの給仕女となり、一年ばかり働いている中Sさんとかいう或新聞の記者に思いを掛けられ、其人につれられて大阪の方へ行って半年あまり遊び暮していた。別れて東京に帰ってから二三軒あちこちのカッフェーを歩いた後遂に現在のカッフェーへ出ることになったのだと云う。併し始て尾張町のライオンに雇われた其より以前の事については、お民は語ることを好まないらしく成りたけ之を避けているように見えた。それとなく朋輩の給仕女にきいて見ると、十八九の時嫁に行き一年ばかりで離縁になったのだと言うものもあれば、十五六の時分から或華族のお屋敷に上っていたのだ。それも唯の奉公ではないという者もあった。いずれが真実だかわからない。兎に角僕等二三人の客の見る所、お民は相応に世間の裏表も、男の気心もわかっていて、何事にも気のつく利口な女であった。酒は好《す》きで、酔うと客の前でもタンカを切る様子はまるで芸者のようで。一度男にだまされて、それ以来|自棄《やけ》半分になっているので
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