銀座のカッフェーには全く出入しないようになってから、或日突然お民が僕の家へ上り込んで、金銭を強請した時の、其態度と申条とによって証明せられることになった。お民の態度は法律の心得がなくては出来ないと思われるほど抜目がなく、又其の言うところは全然共産党党員の口吻に類するものがあった。
書肆博文館が僕に対して版権侵害の賠償を要求して来た其翌日である。正午すこし前、お民は髪を耳かくしとやらに結い、あらい石だたみのような飛白《かすり》お召の単衣《ひとえ》も殊更袖の長いのに、宛然《さながら》田舎源氏の殿様の着ているようなボカシの裾模様のある藤紫の夏羽織を重ね、ダリヤの花の満開とも言いたげな流行の日傘をさして、山の手の静な屋敷町に在る僕の家の門前に現れたのであった。芸者とも女優ともつかぬ此のけばけばしい風俗で良家を訪問することは其家に対しては不穏な言語や兇器よりも、遥に痛烈な脅嚇である。むかしの無頼漢が町家《ちょうか》の店先に尻をまくって刺青《ほりもの》を見せるのと同しである。僕はお民が何のために突然僕の家へ来たのかを問うより先に、松屋呉服店あたりで販売するとか聞いているシャルムーズの羽織一枚で殆前後を忘れるまでに狼狽した。殊にその日は博文館との掛合で、いつもより人の出入の多そうに思われる折とて、何はさて置きお民の姿を玄関先から隠したいばかりに、僕はお民を一室に通すや否や、すぐにその来意を問うとお民は長い袂をすくい上げるように膝の上に載せ、袋の底から物をたぐり出すように巻煙草入を取出し、
「わたし、御存じでしょうけれど、もう銀座はやめにしました。」
「そうだそうですね。この間友達から聞きました。」と僕はそれとなく女の様子を窺いながら次の言葉を待った。するとお民は一向気まりのわるい風もせず、
「きょうはすこしお願いしたいことがあるんです。」と落ちつき払って切り出した。其様子から物言いまで曾てカッフェーにいた時分、壁や窓に倚りかかって、其の辺に置いてある植木の葉をむしり取って、噛んでは吐《は》きだしながら冗談を言っていた時とは、まるで別の人になっている。僕はさてこそと、変化《へんげ》の正体を見届けたような心持で、覚えず其顔を見詰めると、お民の方でもじろりと僕の顔を尻目《しりめ》にかけて壁の懸物へと視線をそらせたが、その瞬間僕の目に映じたお民の容貌の冷静なことと、平生から切長の眼尻に
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