類の僕に対する攻撃の文によって、僕はいい年をしながらカッフェーに出入し給仕女に戯れて得々としているという事にされてしまった。そして相手の給仕女はお民であるという事になった。
 生田さんは新聞紙が僕を筆誅する事日を追うに従っていよいよ急なるを見、カッフェーに出入することは当分見合すがよかろうと注意をしてくれた。僕は生田さんの深切を謝しながら之に答えて、
「新聞で攻撃をされたからカッフェーへは行かないという事になると、つまり新聞に降参したのも同じだ。新聞記者に向って頭を下げるのも同じ事だ。僕はいやでもカッフェーに行く。雨が降ろうが鎗が降ろうが出かけなくてはどうも気がすまない。僕は現代の新聞紙なるものが如何に個人を迫害するものかと言うことを、僕一人の身の上について経験して見るのも一興じゃアないか。僕は日本現代の社会のいかに嫌悪すべきものかと云うことを一ツでも多く実例を挙げて証明する事ができれば、結局僕の勝になるんだ。」と言った。
 すると友達の一人は、「君の態度はまるで西洋十八世紀の社会に反抗したルッソオのようだと言いたいが、然し柄にないことだからまア止した方がいいよ。君はやっぱり江戸文学の考証でもしている方が君らしくっていいよ。」と冷笑した。
 兎角する中議論はさて措き、如何に痩我慢の強い我輩も悠然としてカッフェーのテーブルには坐っていられないようになった。東京の新聞紙が挙って僕のカッフェーに通うのは女給仕人お民のためだという事を報道するや、以前お民をライオンから連出して大阪へ行っていたSさんという人が、一夕突然僕等のテーブルの傍に顕れ来って、「君は僕の女をとったそうだ。ほんとうか。」と血相を変えて叫んだこともあった。すると、やがて僕の身辺をそれとなく護衛していたと号する一青年が顕れて、結局酒手と車代とを請求した。給仕女に名刺を持たせてお話をしたい事があるからと言って寄越す人が多い時には一夜に三四人も出て来るようになった。春陽堂と改造社との両書肆が相競って全集一円本刊行の広告を出す頃になると、そういう一面識もない人で僕と共に盃を挙げようというものがいよいよ増加した。初めに給仕を介したり或は名刺を差付けたりする者はまだしも穏な方であった。遂には突然僕の面前に坐って、突然「オイ君」という調子でコップを僕の鼻先につきつけるものもあるようになった。
 此等の人々は見るところ大抵
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