三木愛花に及んで此の種の艶史は遂に終を告げた。
 僕はカッフェーの卓子に憑《よ》って目には当世婦女の風俗を観、心には前代名家の文章を想い起すや、喟然《きぜん》としてわが文藻の乏しきを悲しまなければならない。泰西に在っては詩人ミュッセが「ミミイパンソンの晴衣裳」の如き、早くより世人の伝唱して措かざるもの。ウェルレーンの詩集も亦カッフェーの光景を詠じた佳什に乏しくない。
 昭和紀元の冬、銀座通に在ったカッフェーにして、殊に給仕女の※[#「靜のへん+見」、第3水準1−93−75]粧《せいしょう》の人目を牽いたものは、ライオン、タイガー、ギンブラ、バッカス、松月、孔雀の如き名を以て呼ばれた店である。此等のカッフェーの光景と給仕女の評判記に至っては現代の雑誌新聞の紙面を埋むる好資料である。既に「騒人」と称する文学雑誌の如きは、カッフェー特別号なるものを編纂し、文芸諸名士のカッフェーに関する名文を網羅して全冊を埋めていた。されば菲才僕の如きものが、今更カッフェーについて舛駁《せんばく》なる文をつくるのは、屋下に屋を架する笑いを招くばかりであろう。
 僕は平生見聞する事物の中、他日小説の資料になるらしく思われる事があると、手帳にこれを書き留めて置く。一日の天気模様でも、月の夜に虹が出たり、深夜の空に彗星が顕れたりすると、之も同じくその見たままを書き留めて置く。これ等は啻《ただ》に小説執筆の際叙景の資料になるのみならず、古人の書を読む時にも案外やくに立つことがある。僕は曾て木氷というものを見たことがあった。木氷とは樹木の枝に滴る雨の雫が突然の寒気に凍って花の咲いたように見えるのを謂うのである。僕は初木氷の名も知らず、亦これが詩人の喜んで瑞兆となすものであることも知らなかったが、近年に至ってたまたま大窪詩仏の集を読むに及んで始て其等の次第を審にしたのである。
 僕が銀座のカッフェーに関して手帳に覚書をして置いたことも尠くはない。左に之を抄録して読者の一※[#「口+據のつくり」、第3水準1−15−24]に供しよう。
「某月某日晩涼ヲ追テ杖ヲ銀座街ニ曳ク。夜市ノ燈火白昼ノ如ク、遊歩ノ男女肩ヲ摩シ踵ヲ接ス。夜熱之ガ為ニ卻テ炎々タリ。避ケテ一酒肆に[#「酒肆に」はママ]入ル。洋風ノ酒肆ニシテ、時人ノ呼ンデカツフヱート称スルモノ即是ナリ。カツフヱーノ語ハモト仏蘭西ヨリ起ル。邦人妄ニ之ヲ借リ来ツ
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