説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて巴里《パリー》の美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村|尽《ことごと》く破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷《いちる》の希望を感じ、時勢につれて審美の観念の変動し行くことを述べた深刻な一章がある。
 災後、東京の都市は忽ち復興して、その外観は一変した。セメントの新道路を逍遥して新しき時代の深川を見る時、おくれ走《ば》せながら、わたくしもまた旧時代の審美観から蝉脱《せんだつ》すべき時の来《きた》った事を悟らなければならないような心持もするのである。
 木場《きば》の町にはむかしのままの堀割が残っているが、西洋文字の符号をつけた亜米利加《アメリカ》松の山積《さんせき》せられたのを見ては、今日誰かこの処を、「伏見に似たり桃の花」というものがあろう。モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場《わたしば》を思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から和倉町《わくらまち》に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。
 冬木町の弁天社は新道路の傍《かたわら》に辛くもその祉を留めている。しかし知十翁《ちじゅうおう》が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因《ちなみ》にいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、纔《わずか》に改称の禍《わざわい》を免れた。)
 冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる福砂通《ふくさどおり》を歩いて行くと、やがて真直に仙台堀に沿うて、大横川《おおよこがわ》の岸に出る。仙台堀と大横川との二流が交叉《こうさ》するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ此処《ここ》にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、荷船《にぶね》の往来もはげしからず、橋の上を走り過るトラックも少く、水陸いずこを見ても目に入るものは材木と鉄管ばかり。材木の匂を帯びた川風の清凉なことが著しく感じられる。深川もむかし六万坪と称えられたこのあたりまで来
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