り注]中略[#ここで割り注終わり]且又茶屋ハ梅本、家満喜、岩村等ト曰フモノ大ニ優ル。自余《コノホカ》大和屋、若松、桝三河ト曰フモノ僉《ミナ》創立ノ旧家ナリト雖亦|杳《ハルカ》ニ之ニ劣レリ。将又券番、暖簾《ウチゲイシヤ》等ノ芸妓ニ於テハ先ヅ小梅、才蔵、松吉、梅吉、房吉、増吉、鈴八、小勝、小蝶、小徳|們《ラ》、凡四十有余名アリ。其他ハ当所ノ糟粕ヲ嘗ムル者、酒店魚商ヲ首トシテ浴楼《ユヤ》箆頭肆《カミユヒドコ》ニ造《イタ》ルマデ幾ド一千余戸ニ及ベリ。総テ這地《コノチ》ノ隆盛ナル反ツテ旧趾ノ南浜新駅《シナガハシンジユク》ヲ羞シムベキ景勢ナリ。然リト雖モ其ノ諸《コレ》ヲ吉原ニ比較スレバ縦《タト》ヘ大楼ト謂フ可キモ亦カノ半籬ニモ及ブ可カラズ。其ノ余ハ推シテ量ル可キナリ矣。」
 根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗《すこぶる》幽邃《ゆうすい》の趣をなしていたので、娼楼の建物をその儘に之を温泉旅館となして営業をなすものがあ
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