、其師星巌が風流の跡を慕って「蓮塘欲[#レ]継梁翁集。也是吾家消暑湾。」と言った。然し幾くもなくして湖山は其居を神田五軒町に移した。
明治年間池塘に居を卜した名士にして、わたくしの伝聞する所の者を挙ぐれば既に述べた福地桜痴小野湖山の他には篆刻家中井敬所と箕作秋坪との二人があるのみである。
わたくしは甚散漫ながら以上の如く明治年間の上野公園について見聞する所を述べた。明治時代の都人は寛永寺の焼跡なる上野公園を以て春花秋月四時の風光を賞する勝地となし、或時はここに外国の貴賓を迎えて之を接待し、又折ある毎に勧業博覧会及其他の集会をここに開催した。此の風習は伝えられて昭和の今日に及んでいる。公園は之がために年と共に俗了し、今は唯病樹の乱立する間に朽廃した旧時の堂宇と、取残された博覧会の建築物とを見るばかりとなった。わたくしをして言わしむれば、東京市現時の形勢より考えて、上野の公園地は既に狭隘に過ぐる憾《うらみ》がある。現時園内に在る建築物は帝室博物館と動物園との二所を除いて、其他のものは諸学校の校舎と共に悉く之を園外の地に移すべく、又谷中一帯の地を公園に編入し、旧来の寺院墓地は之を存置し、
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