[#ここで割り注終わり]曰ク金邑屋[#ここから割り注]後ニ岩村楼ニ革メ又吉野屋ニ革ム[#ここで割り注終わり]此ノ他|局店《ツボネミセ》ハ曰ク三福長屋、曰ク恵比寿長屋等各三四戸アリ。徒《タダ》コレニ過ギズ。然ルニ皇制ノ余沢僻隅ニ澆浩シ維新以降漸次ソノ繁昌ヲ得タリ。乍《タチマ》チニシテ島原ノ妓楼廃止セラレテ那ノ輩這ノ地ニ転ジ、新古互ニ其ノ栄誉ヲ競フニオヨンデ、好声一時ニ騰々タルコトヲ得タリ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]現在|大楼《オオミセ》ト称スル者今其ノ二三ヲ茲ニ叙スレバ即曰ク松葉楼[#ここから割り注]俚俗大松葉ト称ス即創立松葉屋是也[#ここで割り注終わり]曰ク甲子楼[#ここから割り注]即創立大黒屋是也[#ここで割り注終わり]曰ク八幡楼、曰ク常盤楼、曰ク姿楼、曰ク三木楼等、維們《コレラ》最モ群ヲ出ヅ。漸次之ニ序《ツ》グ者、則チ曰ク大磯屋、曰ク勝松葉、曰ク湊屋、曰ク林屋、曰ク新常磐屋、曰ク吉野屋、曰ク伊住屋、曰ク武蔵屋、曰ク新丸屋、曰ク吉田屋等極メテ美ナリ。自余《コノホカ》或ハ小店ト称シ、或ハ五軒ト号《ナヅ》ケ、或ハ局ト呼ブ者ノ若キハ曾テ算フルニ遑アラズ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]且又茶屋ハ梅本、家満喜、岩村等ト曰フモノ大ニ優ル。自余《コノホカ》大和屋、若松、桝三河ト曰フモノ僉《ミナ》創立ノ旧家ナリト雖亦|杳《ハルカ》ニ之ニ劣レリ。将又券番、暖簾《ウチゲイシヤ》等ノ芸妓ニ於テハ先ヅ小梅、才蔵、松吉、梅吉、房吉、増吉、鈴八、小勝、小蝶、小徳|們《ラ》、凡四十有余名アリ。其他ハ当所ノ糟粕ヲ嘗ムル者、酒店魚商ヲ首トシテ浴楼《ユヤ》箆頭肆《カミユヒドコ》ニ造《イタ》ルマデ幾ド一千余戸ニ及ベリ。総テ這地《コノチ》ノ隆盛ナル反ツテ旧趾ノ南浜新駅《シナガハシンジユク》ヲ羞シムベキ景勢ナリ。然リト雖モ其ノ諸《コレ》ヲ吉原ニ比較スレバ縦《タト》ヘ大楼ト謂フ可キモ亦カノ半籬ニモ及ブ可カラズ。其ノ余ハ推シテ量ル可キナリ矣。」
 根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗《すこぶる》幽邃《ゆうすい》の趣をなしていたので、娼楼の建物をその儘に之を温泉旅館となして営業をなすものがあった。当時都下の温泉旅館と称するものは旅客の宿泊する処ではなくして、都人の来って酒宴を張り或は遊冶郎の窃《ひそか》に芸妓矢場女の如き者を拉して来る処で、市中繁華の街を離れて稍《やや》幽静なる地区には必《かならず》温泉場なるものがあった。則《すなわち》深川仲町には某楼があり、駒込追分には草津温泉があり、根岸には志保原伊香保の二亭があり、入谷には松源があり、向島秋葉神社境内には有馬温泉があり、水神には八百松があり、木母寺の畔には植半があった。明治七年に刊行せられた東京新繁昌記中に其の著者服部撫松は都下の温泉場を叙して、「輓近又処々ニ温泉場ヲ開クモノアリ。各諸州有名ノ暄池《ヲンセン》ヲ以テ之ニ名ク。曰ク伊豆七湯、曰ク有馬温泉、曰ク何、曰ク何ト。蓋シ其温泉或ハ湯花ヲ汲来ツテ之ヲ湯中ニ和スト云フ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]方今深川ノ仲街ニ開ク者ヲ以テ巨擘トナス。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]俳優沢村氏新戯場ヲ開カントシテ未ダ成ラズ。故ニ温泉場ヲ開イテ以テ仲街ノ衰勢ヲ挽回セントスル也。建築ノ風一妓楼ノ如ク、楼ニ接シテ数箇ノ小茶店アリ。各酒肴ヲ弁ジ、且ツ絃妓ヲ蓄フ。亦花街ノ茶店ニ異ラズ。此楼モトヨリ浴ス可ク又酔フ可ク又能ク睡ル可シ。凡ソ人間ノ快楽ヤ浴酔睡ノ三字ニ如クハ無シ。一楼ニシテ三快ヲ鬻グ者ハ亦新繁昌中ノ一洗旧湯ナリ。」と言っている。
 小説家春の家おぼろの当世書生気質第十四回には明治十八九年頃の大学生が矢場女を携えて、本郷駒込の草津温泉に浴せんとする時の光景が記述せられて居る。是亦当時の風俗を窺う一端となるであろう。其文に曰く、「草津とし云へば臭気《にほひ》も名も高き、其本元の薬湯を、ここにうつしてみつや町に、人のしりたる温泉あり。夏は納涼、秋は菊見遊山をかねる出養生、客あし繁き宿ながら、時しも十月中旬の事とて、団子坂の造菊も、まだ開園にはならざる程ゆゑ、この温泉も静にして浴場は例の如く込合へども皆湯銭並の客人のみ、座敷に通るは最稀なり。五六人の女婢手を束ねて、ぼんやり客俟の誰彼時、たちまちガラ/\ツとひきこみしは、たしかに二人乗の人力車、根津の廓からの流丸《それだま》ならずば権君御持参の高帽子、と女中はてん/″\に浮立つゝ、貯蓄《とつとき》のイラツシヤイを惜気もなく異韻一斉さらけだして、急ぎいでむかへて二度吃驚、男は純然たる山だし書
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング