が、わたくしはまだ此二家の不忍池畔にいた時の年代を調査する遑がない。俳諧師永機の事も亦寡識の及ばざる所である。詩人梁川星巌の不忍池畔に居ったのは天保十年の夏より冬に至る間のことで画家酒巻立兆なるものの家に寓していたのである。是の事は既に拙著下谷叢話の中に記述してある。
 香亭雅談には言われていないが、服部南郭の門人宮瀬氏[#ここから割り注]劉龍門という[#ここで割り注終わり]も明和安永の頃不忍池のほとりに居を卜した。大田南畝が壮時劉龍門に従って詩を学んだことも、既にわたくしは葷斎漫筆なる鄙稿の中に記述した。
 南郭龍門の二家は不忍池の文字の雅馴《がじゅん》ならざるを嫌って其作中には之を篠池と書している。星巌及び其社中の詩人は蓮塘と書し又杭州の西湖に擬して小西湖と呼んだ。星巌が不忍池十詠の中霽雪を賦して「天公調[#二]玉粉[#一]。装飾小西湖。」と言っているが如きは其一例である。維新の後星巌の門人横山湖山が既に其姓を小野と改め近江の郷里より上京し、不忍池畔に一楼を構えて新に詩社を開いた。是明治五年壬申の夏である。湖山は維新の際国事に奔走した功により権弁事の職に挙げられたが姑くにして致仕し、其師星巌が風流の跡を慕って「蓮塘欲[#レ]継梁翁集。也是吾家消暑湾。」と言った。然し幾くもなくして湖山は其居を神田五軒町に移した。
 明治年間池塘に居を卜した名士にして、わたくしの伝聞する所の者を挙ぐれば既に述べた福地桜痴小野湖山の他には篆刻家中井敬所と箕作秋坪との二人があるのみである。
 わたくしは甚散漫ながら以上の如く明治年間の上野公園について見聞する所を述べた。明治時代の都人は寛永寺の焼跡なる上野公園を以て春花秋月四時の風光を賞する勝地となし、或時はここに外国の貴賓を迎えて之を接待し、又折ある毎に勧業博覧会及其他の集会をここに開催した。此の風習は伝えられて昭和の今日に及んでいる。公園は之がために年と共に俗了し、今は唯病樹の乱立する間に朽廃した旧時の堂宇と、取残された博覧会の建築物とを見るばかりとなった。わたくしをして言わしむれば、東京市現時の形勢より考えて、上野の公園地は既に狭隘に過ぐる憾《うらみ》がある。現時園内に在る建築物は帝室博物館と動物園との二所を除いて、其他のものは諸学校の校舎と共に悉く之を園外の地に移すべく、又谷中一帯の地を公園に編入し、旧来の寺院墓地は之を存置し、市民の居宅を取払ったならば稍規模の大なる公園となす事ができるであろう。
 明治三十年頃までは日暮里から道灌山あたりの阻台は公園にあらざるも猶公園に均しき閑静の地であった。
 上野公園地丘陵の東麓に鉄道の停車場が設けられたのは明治十六年七月である。停車場及鉄道線路の敷地となった処には維新前には下寺《したでら》と呼ばれた寛永寺所属の末院が堂舎を連ねていた。此処に停車場を建てて汽車の発着する処となしたのは上野公園の風趣を傷ける最大の原因であった。上野の停車場及倉庫の如きは其の創設の当初に於て水利の便ある秋葉ヶ原のあたりを卜して経営せられべきものであった。然し新都百般の経営既に成った後之を非難するは、病の膏盲に入った後治療の法を講ぜんとするが如きものであろう。東京の都市は王政復古の後早くも六十年の星霜を閲しながら、猶防火衛生の如き必須の設備すら完成することが出来ずにいる。都市のことを言うに臨んで公園の如き閑地の体裁について多言を費すのは迂愚の甚しきものであろう。
[#地から1字上げ]昭和二年六月記



底本:「日和下駄 一名 東京散策記」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年10月10日第1刷発行
   2006(平成18)年1月5日第7刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年2月
   「荷風全集 第十六巻」岩波書店
   1964(昭和39)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年1月18日作成
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