市民の居宅を取払ったならば稍規模の大なる公園となす事ができるであろう。
明治三十年頃までは日暮里から道灌山あたりの阻台は公園にあらざるも猶公園に均しき閑静の地であった。
上野公園地丘陵の東麓に鉄道の停車場が設けられたのは明治十六年七月である。停車場及鉄道線路の敷地となった処には維新前には下寺《したでら》と呼ばれた寛永寺所属の末院が堂舎を連ねていた。此処に停車場を建てて汽車の発着する処となしたのは上野公園の風趣を傷ける最大の原因であった。上野の停車場及倉庫の如きは其の創設の当初に於て水利の便ある秋葉ヶ原のあたりを卜して経営せられべきものであった。然し新都百般の経営既に成った後之を非難するは、病の膏盲に入った後治療の法を講ぜんとするが如きものであろう。東京の都市は王政復古の後早くも六十年の星霜を閲しながら、猶防火衛生の如き必須の設備すら完成することが出来ずにいる。都市のことを言うに臨んで公園の如き閑地の体裁について多言を費すのは迂愚の甚しきものであろう。
[#地から1字上げ]昭和二年六月記
底本:「日和下駄 一名 東京散策記」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年10月10日第1刷発行
2006(平成18)年1月5日第7刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十三巻」岩波書店
1963(昭和38)年2月
「荷風全集 第十六巻」岩波書店
1964(昭和39)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年1月18日作成
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