たらんとしたのである。又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木挽町合引橋に移居した後まで永く其の儘に残っていたので、わたくしも能く之を見おぼえている。家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるところ、われわれの目には富商の隠宅か或は旗亭かとも思われた位で、今日の紳士が好んで築造する邸宅とは全く趣を異にしたものであった。
 茅町の岸は本郷向ヶ岡の丘阜を背にし東に面して不忍池と上野の全景とを見渡す勝概の地である。然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに堪えないと云うことである。
 不忍池の周囲は明治十六七年の頃に埋立てられて競馬場となった。一説に明治十八年とも云う。中根淑の香亭雅談を見るに「今歳ノ春都下ノ貴紳相議シテ湖ヲ環ツテ闘馬ノ場ヲ作ル。工ヲ発シ混沌ヲ鑿ル。而シテ旧時ノ風致全ク索《ツ》ク矣。」と言っている。雅談の成った年は其序によって按ずれば癸未暮春[#ここから割り注]明治十六年[#ここで割り注終わり]である。また巻尾につけられた依田学海の跋を見れば明治十九年二月としてある。
 香亭雅談には又江戸時代の文人にして不忍池畔に居を卜したものの名を挙げて下の如くに言っている。「古ヨリ都下ノ勝地ヲ言フ者必先ヅ指ヲ小西湖ニ屈スルハ其山水ノ観アルヲ以テナリ。服部南郭、屋代輪池、清水泊※[#「さんずい+百」、第4水準2−78−45]、梁川星巌、深川永機等皆一タビ、跡ヲ湖上ニ寄ス。爾来文人韻士ノ之ニ居ル者鮮シトナサズ。」
 服部南郭の不忍池畔に住んだのは其文集について按ずるに享保初年の頃で、いくばくもなくして本郷に移り又芝に移った。南郭文集初編巻の四に即事二首篠池作なるものを載せている。其一に曰く「一臥茅堂篠水陰。長裾休[#レ]曳此蕭森。連城抱[#レ]璞多時泣。通邑伝[#レ]書百歳心。向[#レ]暮林烏無数黒。歴[#レ]年江樹自然深。人情湖海空迢※[#「二点しんにょう+帶」、145−11]。客迹天涯奈[#二]滞淫[#一]。」
 屋代輪池は幕府の右筆にして著名の考証家屋代大郎である。清水泊※[#「さんずい+百」、第4水準2−78−45]は和学者村田春海の門人清水浜臣で、此二人はいずれも大田南畝と時を同じくした人である
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング