かし後年芝居を見るようになってから、講談筆記で覚えた話の筋道は非常に役に立った。
 東京の家からは英語の教科書に使われていたラムの『沙翁《さおう》物語』、アービングの『スケッチブック』とを送り届けてくれたので、折々字引と首引《くびッぴき》をしたこともないではなかった。
 わたくしは今日の中学校では英語を教えるのに如何なる書物を用いているか全く不案内である。中学校で英語を教えることは有害無益だという説もだんだん盛になって来るようである。思出すままに、わたくしたちが三、四十年前中学校でよんだ英文の書目を挙げて見るのもまた一興であろう。その頃、英語は高等小学校の三、四年頃から課目に加えられていた。教科書は米国の『ナショナル・リーダー』であった。中学校に進んで、一、二年の間はその頃新に文部省で編纂した英語|読本《とくほん》が用いられていたが書名は今覚えていない。この読本は英国人の教師が生徒の発音を正しくするために用いたので、訳読には日本人の教師が別の書物を用いた。その中で記憶に残っているものは、マコーレーのクライブの伝。パアレーの『万国史』。フランクリンの『自叙伝』。ゴールドスミスの『ウェークフィルドの牧師』。それからサー・ロジャス・デカバリイ。巴里屋根裏の学者の英訳本などである。中村敬宇《なかむらけいう》先生が漢文に訳せられた『西国立志編《さいごくりっしへん》』の原書もたしか読んだように思っている。
 中学を出て、高等学校の入学試験を受ける準備にと、わたくしたちは神田錦町《かんだにしきちょう》の英語学校へ通った時、始めてヂッケンスの小説をよんだ。
 話は前へもどって、わたくしは七月の初東京の家に帰ったが、間もなく学校は例年の通り暑中休暇になるので、家の人たちと共に逗子《ずし》の別荘に往《ゆ》き九月になって始めて学校へ出た。しかしこれまで幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。休課の時間にもわたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え初めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった。
 根岸派の新俳句が流行し始めたのは丁度その時分の事で、わたくしは『日本』新聞に連載せられた子規《しき》の『俳諧大要』の切抜を帳面に張り込み、幾度《いくたび》となくこれを読み返して俳句を学んだ。
 漢詩の作法は最初父に就《つ》
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