年試験もそのまま打捨て、父につれられて小田原の町はずれにあった足柄《あしがら》病院へ行く事になった。(東京で治療を受けていた医者は神田神保町《かんだじんぼうちょう》に暢春医院の札を出していた馬島永徳という学士であった。暢春医院の庭には池があって、夏の末には紅白の蓮の花がさいていた。その頃|市中《まちなか》の家の庭に池を見ることはさして珍しくはなかったのである。)
わたくしは三カ月ほど外へ出たことがなかったので、人力車《じんりきしゃ》から新橋の停車場《ていしゃじょう》に降り立った時、人から病人だと思われはせぬかと、その事がむやみに気まりがわるく、汽車に乗込んでからも、帽子を眉深《まぶか》にかぶり顔を窗《まど》の方へ外向《そむ》けて、ろくろく父とも話をせずにいた。国府津《こうづ》の停車場前からはその頃既に箱根行の電車があった。(しかし駅という語はまだ用いられていなかった。)病院に着いて、二階の一室に案内せられ、院長の診察を受けたりしていると、間もなく昼飯時になった。父は病院の食物を口にしたくなかったためであろう。わたくしをつれて城内の梅園に昼飯を食べに出掛けた。その頃、小田原の城跡には石垣や堀がそのまま残っていて、天主台のあった処には神社が建てられ、その傍に葭簀張《よしずばり》の休茶屋《やすみぢゃや》があって、遠眼鏡《とおめがね》を貸した。わたくしが父に伴われて行った料理茶屋は堀端に生茂った松林のかげに風雅な柴折《しおり》門を結んだ茅葺《かやぶき》の家であった。門内は一面の梅林で、既に盛りを過した梅の花は今しも紛々として散りかけている最中であった。父はわたくしが立止って顔の上に散りかかる落梅を見上げているのを顧み、いかにも満足したような面持《おももち》で、古人の句らしいものを口ずさんで聞かされたが、しかしそれは聞き取れなかった。後年に至って、わたくしは大田南畝《おおたなんぼ》がその子淑《ししゅく》を伴い御薬園の梅花を見て聯句《れんく》を作った文をよんだ時、小田原|城址《じょうし》の落梅を見たこの日の事を思出して言知れぬ興味を覚えた。
父は病院に立戻ると間もなく、その日もまだ暮れかけぬ中《うち》、急いで東京に帰られた。わたくしは既に十七歳になっていたが、その頃の中学生は今日とはちがって、日帰りの遠足より外《ほか》滅多に汽車に乗ることもないので、小田原へ来たのも無論この
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