ない。わたしは既に帝国劇場の開かれてより十星霜を経たことを言った。今日この劇場内外の空気の果して時代の趨勢を観察するに足るものであったか否か。これまた各自の見るところに任すより外はない。
 わたしは筆を中途に捨てたわが長編小説中のモデルを、しばしば帝国劇場に演ぜられた西洋オペラまたはコンセールの聴衆の中に索《もと》めようと力《つと》めた。また有楽座に開演せられる翻訳劇の観客に対しては特に精細なる注意をなした。わたしは漸《ようや》くにして現代の婦人の操履《そうり》についてやや知る事を得たような心持になった。それと共にわたしはいよいよわが制作の困難なることを知ったのである。およそ芸術の制作には観察と同情が必要である。描かんとする人物に対して、著作者の同情深厚ならざるときはその制作は必ず潤《うるお》いなき諷刺に堕《お》ち、小説中の人物は、唯作者の提供する問題の傀儡《かいらい》たるに畢《おわ》るのである。わたしの新しき女を見て纔《わずか》に興を催し得たのは、自家の辛辣《しんらつ》なる観察を娯《たの》しむに止《とどま》って、到底その上に出づるものではない。内心より同情を催す事は不可能であった。わたしの眼底には既に動しがたき定見がある。定見とは伝習の道徳観と並に審美観とである。これを破却するは曠世《こうせい》の天才にして初めて為し得るのである。
 わたしの眼に映じた新らしき女の生活は、あたかも婦人雑誌の表紙に見る石版摺《せきばんずり》の彩色画と殆《ほとんど》撰ぶところなきものであった。新しき女の持っている情緒は、夜店の賑《にぎわ》う郊外の新開町に立って苦学生の弾奏して銭を乞うヴァイオリンの唱歌を聞くに等しきものであった。
 小春治兵衛《こはるじへえ》の情事を語るに最も適したものは大阪の浄瑠璃である。浦里時次郎《うらざとときじろう》の艶事を伝うるに最《もっとも》適したものは江戸の浄瑠璃である。マスカニの歌劇は必《かならず》伊太利亜《イタリア》語を以て為されなければなるまい。
 然らば当今の女子、その身には窓掛に見るような染模様の羽織を引掛け、髪は大黒頭巾《だいとくずきん》を冠《かぶ》ったような耳隠しの束髪に結《ゆ》い、手には茄章魚《ゆでだこ》をぶらさげたようなハンドバッグを携え歩む姿を写し来って、宛然《さながら》生けるが如くならしむるものはけだしそのモデルと時代を同じくし感情を倶《とも》にする作家でなければならない。
 江戸時代にあって、為永春水《ためながしゅんすい》その年五十を越えて『梅見の船』を脱稿し、柳亭種彦《りゅうていたねひこ》六十に至ってなお『田舎源氏』の艶史を作るに倦《う》まなかったのは、啻《ただ》にその文辞の才|能《よ》くこれをなさしめたばかりではなかろう。

       四

 築地本願寺畔の僑居《きょうきょ》に稿を起したわたしの長篇小説はかくの如くして、遂に煙管《キセル》の脂《やに》を拭う反古《ほご》となるより外、何の用をもなさぬものとなった。
 しかしわたしはこれがために幾多の日子《にっし》と紙料とを徒費したことを悔《く》いていない。わたしは平生《へいぜい》草稿をつくるに必ず石州製の生紙《きがみ》を選んで用いている。西洋紙にあらざるわたしの草稿は、反古となせば家の塵《ちり》を掃《はら》うはたきを作るによろしく、揉《も》み柔《やわら》げて厠《かわや》に持ち行けば浅草紙《あさくさがみ》にまさること数等である。ここに至って反古の有用、間文字《かんもじ》を羅列したる草稿の比ではない。
 わたしは平生文学を志すものに向って西洋紙と万年筆とを用うること莫《なか》れと説くのは、廃物利用の法を知らしむる老婆心に他ならぬのである。
 往時、劇場の作者部屋にあっては、始めて狂言作者の事務を見習わんとするものあれば、古参の作者は書抜の書き方を教ゆるに先だって、まず見習をして観世捻《かんぜより》をよらしめた。拍子木《ひょうしぎ》の打方を教うるが如きはその後のことである。わたしはこれを陋習《ろうしゅう》となして嘲《あざけ》った事もあったが、今にして思えばこれ当然の順序というべきである。観世捻をよる事を知らざれば紙を綴《と》ずることができない。紙を綴ることを知らざれば書抜を書くも用をなさぬわけである。事をなすに当って設備の道を講ずるは毫《ごう》も怪しむに当らない。或人の話に現時|操觚《そうこ》を業となすものにして、その草稿に日本紙を用うるは生田葵山《いくたきざん》子とわたしとの二人のみだという。亡友|唖々《ああ》子もまたかつて万年筆を手にしたことがなかった。
 千朶山房《せんださんぼう》の草稿もその晩年『明星』に寄せられたものを見るに無罫《むけい》の半紙《はんし》に毛筆をもって楷行を交えたる書体、清勁暢達《せいけいちょうたつ》、直にその文を思わしむるものがあった。
 わたしはしばしば家を移したが、その度ごとに梔子《くちなし》一株を携え運んで庭に植える。啻《ただ》に花を賞するがためばかりではない。その実を採って、わたしは草稿の罫紙《けいし》を摺《す》る顔料となすからである。梔子の実の赤く熟して裂け破れんとする時はその年の冬も至日《しじつ》に近い時節になるのである。傾きやすき冬日の庭に塒《ねぐら》を急ぐ小禽《ことり》の声を聞きつつ梔子の実を摘《つ》み、寒夜孤燈の下に凍《こご》ゆる手先を焙《あぶ》りながら破れた土鍋《どなべ》にこれを煮る時のいいがたき情趣は、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を執る時の心に比して遥に清絶であろう。一は全く無心の間事《かんじ》である。一は雕虫《ちょうちゅう》の苦、推敲《すいこう》の難、しばしば人をして長大息《ちょうたいそく》を漏らさしむるが故である。
 今秋不思議にも災禍を免《まぬか》れたわが家《や》の庭に冬は早くも音ずれた。筆を擱《お》いてたまたま窓外を見れば半庭の斜陽に、熟したる梔子|燃《もゆ》るが如く、人の来って摘むのを待っている……。
[#地から2字上げ]大正十二年|癸亥《きがい》十一月稿



底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※底本はこの作品で「門<日」と「門<月」を使い分けており、「間文字」と「間事」では、「門<月」を用いています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月19日作成
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