左右に明放《あけはな》つと、舞踏のできる広い一室になるようにしてあった。階上にはベランダを廻らした二室があって、その一は父の書斎、一つは寝室であるが、そのいずれからも坐《い》ながらにして、海のような黄浦江《こうほこう》の両岸が一目に見渡される。父はわたくしに裏手の一室を与えて滞留中の居間にさせられた。この室にはベランダはなかったが、バルコンのついた仏蘭西風の窓に凭《もたれ》ると、芝生の向《むこう》に事務所になった会社の建物と、石塀の彼方《かなた》に道路を隔てて日本領事館の建物が見える。その頃には日本の租界《そかい》はなかったので、領事館を始め、日本の会社や商店は大抵美租界の一隅にあった。唯横浜|正金《しょうきん》銀行と三井物産会社とが英租界の最も繁華な河岸通にあったのだという。
 美租界と英租界との間に運河があって、虹口橋《こうこうきょう》とか呼ばれた橋がかかっていた。橋をわたると黄浦江の岸に臨んで洋式の公園がある。わたくしは晩餐をすましてから、会社の人に導かれて、この公園を散歩したが、一時間あまりで帰って来たので、その道程《みちのり》は往復しても日本の一里を越していまいと思った。
 やがて裏手の一室に這入《はい》って、寝《しん》に就《つ》いたが、わたくしは旅のつかれを知りながらなかなか寐つかれなかった。わたくしは上陸したその瞬間から唯物珍らしいというよりも、何やら最《もう》少し深刻な感激に打たれていたのであった。その頃にはエキゾチズムという語《ことば》はまだ知ろうはずもなかったので、わたくしは官覚の興奮していることだけは心づいていながら、これを自覚しこれを解剖するだけの智識がなかったのである。
 しかし日に日に経験する異様なる感激は、やがて朧《おぼろ》ながらにも、海外の風物とその色彩とから呼起されていることを知るようになった。支那人の生活には強烈なる色彩の美がある。街を歩いている支那の商人や、一輪車に乗って行く支那婦人の服装。辻々に立っている印度人の巡査が頭《かしら》に巻いている布や、土耳古《トルコ》人の帽子などの色彩。河の上を往来している小舟の塗色《ぬりいろ》。これに加うるに種々なる不可解の語声。これらの色と音とはまだ西洋の文学芸術を知らなかったにもかかわらず、わたくしの官覚に強い刺戟を与えずにはいなかったのである。
 或日わたくしは、銅羅《どら》を鳴《なら》しながら街上を練り行く道台《トウタイ》の行列に出遇った。また或日の夕方には、大声に泣きながら歩く女の列を先駆にした葬式の行列に出遇って、その奇異なる風俗に眼《まなこ》を見張った。張園の木《こ》の間《ま》に桂花を簪《かざし》にした支那美人が幾輛となく馬車を走らせる光景。また、古びた徐園の廻廊に懸けられた聯句《れんく》の書体。薄暗いその中庭に咲いている秋花のさびしさ。また劇場や茶館の連《つらな》った四馬路《スマル》の賑《にぎわ》い。それらを見るに及んで、異国の色彩に対する感激はますます烈しくなった。
 大正二年革命の起ってより、支那人は清朝《しんちょう》二百年の風俗を改めて、われわれと同じように欧米のものを採用してしまったので、今日の上海には三十余年のむかし、わたくしが目撃したような色彩の美は、最早《もは》や街路の上には存在していないのかも知れない。
 当時わたくしは若い美貌の支那人が、辮髪《べんぱつ》の先に長い総《ふさ》のついた絹糸を編み込んで、歩くたびにその総の先が繻子《しゅす》の靴の真白な踵《かかと》に触れて動くようにしているのを見て、いかにも優美|繊巧《せんこう》なる風俗だと思った。はでな織模様のある緞子《どんす》の長衣の上に、更にはでな色の幅びろい縁《ふち》を取った胴衣を襲《かさ》ね、数の多いその釦《ボタン》には象眼細工《ぞうがんざいく》でちりばめた宝石を用い、長い総のついた帯には繍取《ぬいと》りのあるさまざまの袋を下げているのを見て、わたくしは男の服装の美なる事はむしろ女に優《まさ》っているのを羨《うらやま》しく思った。
 清朝の暦法はわが江戸時代と同じく陰暦を用いていた。或日父母に従って馬車を遠く郊外に馳《は》せ、柳と蘆《あし》と桑ばかり果しなくつづいている平野の唯中に龍華寺《りゅうげじ》という古刹《こさつ》をたずね、その塔の頂に登った事を思返すと、その日はたしかに旧暦の九月九日、即ち重陽《ちょうよう》の節句に当っていたのであろう。重陽の節に山に登り、菊の花または茱萸《ぐみ》の実を摘《つ》んで詩をつくることは、唐詩を学んだ日本の文人が、江戸時代から好んでなした所である。上海の市中には登るべき岡阜《こうふ》もなく、また遠望すべき山影もない。郊外の龍華寺に往《ゆ》きその塔に登って、ここに始めて雲烟《うんえん》渺々《びょうびょう》たる間に低く一連の山脈を望むことが
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