れわれを呼んだ。わたくしはその魚を押えて学生の立っている桟橋へ舟をつけたので、すっかり心安くなり、その後われわれが弁当なぞ食べているのを見たりすると、土瓶《どびん》に暖い茶を入れて持って来てくれるようなこともあった。
月日《つきひ》は過ぎて行く。いつかわれわれは舟遊びにも飽きて舟を借りにも行かなくなってから、また更に月日がたつ。尋常中学を出て専門の学校も卒業した後、或会社に雇われて亜米利加《アメリカ》へ行った。そして或日曜日の午後《ひるすぎ》、紐育《ニューヨーク》中央公園のベンチで新聞を読んでいた時、わたくしの顔を見て、立止ると共にわたくしの名を呼んだ紳士があった。誰あろう。幾年か前浅草橋場の岸の桟橋で釣をしていたその人である。少年の頃の回想はその時いかに我々を幸福にしたか知れない。
橋場辺の岸から向岸を見ると、帝国大学のペンキに塗られた艇庫《ていこ》が立っていて、毎年|堤《つつみ》の花の咲く頃、学生の競漕《きょうそう》が行われて、艇庫の上のみならず、そのあたり一帯が競漕を見にくる人で賑かになる。堤の上に名物《めいぶつ》言問団子《ことといだんご》を売る店があり、堤の桜の由来を記した高い石碑が立っていたのも、その辺であったと思う。団子屋の前を歩み過ぎて、堤から右手へ降りて行くと静かな人家の散在している町へ出る。
西洋から帰って来てまだ間もない頃のことである。以前日本にいた頃、柳橋で親しくなった女から、わたくしは突然手紙を貰い、番地を尋ねて行くと、昔から妾宅《しょうたく》なぞの多くある堤下の静な町である。
その頃はやっと三十を越すか越さない身の上の事。すぐさま女をさそい出して浅草公園へ夕飯をたべに行った。女は暫《しばら》くして曳舟通《ひきふねどおり》へ引移ったが、いずれにしても山の手から下町へ出て隅田の水を渡って逢いに行くのがいかにも詩のように美しく思われた。隅田の水はまだ濁らず悪臭も放たず清く澄んでいたので渡船《わたしぶね》で河を越す人の中には、舷《ふなべり》から河水で手を洗うものさえあった。
曳舟まで出て見ると、場末の町つづきになって百花園《ひゃっかえん》も遠くはない。百花園から堀切《ほりきり》の菖蒲園《しょうぶえん》も近くなって来る。堀切のあたりは放水路の流がまだ出来ない時代には樹木の繁った間に小川が流れ込んでいた全くの田園で、菖蒲を植えた庭も四、五カ処
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