ゥ分はかの眼もくるめく電灯の下《した》で、無智なる観客を相手に批評家と作家と俳優と興行師とが争名《さうめい》と収益との鎬《しのぎ》を削合《けづりあ》ふ劇場の天地を一日も早く忘れたい。さういふ激烈な芸術の巷《ちまた》を去りたい。そして悲しいロオダンバツクのやうに唯だ余念もなく、書斎の家具と、寺院の鐘と、尼と水鳥と、廃市を流るゝ堀割の水とばかりを歌ひ得るやうになりたい。

     五

 食堂に下《お》りて、西洋人の家族と独身の若者共とが互に談笑する中《なか》のテエブルに、自分ばかりは黙つて食事をすまし、広間の長椅子に凭《もた》れて其の辺《へん》に置いてある上海や香港《ホンコン》やマニラあたりの英字新聞を物珍らしく拾ひ読みした後、早く寝てしまつた。
 次の朝、宿屋の番頭はこれから三里の山道をば温泉《うんぜん》ヶ|岳《たけ》の温泉へ行かれてはと云つてくれたが、自分は馬か駕籠《かご》しか通はぬといふ山道《やまみち》の疲労を恐れて、まる二日間をば唯《た》だ茫然とホテルの海に臨んだ外縁《ヴエランダ》の上に過してしまつた。自分には独りでぼんやり物思ひに沈んでゐるのが何よりも快かつたのである。
 三
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