花より雨に
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)連翹《れんげう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|来《く》べき
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)まばら[#「まばら」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ばら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Il pleure dans mon coe&ur〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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しづかな山の手の古庭に、春の花は支那の詩人が春風二十四番と数へたやう、梅、連翹《れんげう》、桃、木蘭、藤、山吹、牡丹、芍薬《しやくやく》と順々に咲いては散つて行つた。
明い日の光の中に燃えては消えて行くさま/″\な色彩の変転は、黙つて淋しく打眺める自分の胸に悲しい恋物語の極めて美しい一章々々を読み行くやうな軟かい悲哀を伝へる。
われの悲しむは過ぎ行く今年の春の為めではない、又|来《く》べき翌年《よくねん》の春の為めと歌つたのは誰《た》れであつたか忘れてしまつたが、春はわが身に取つて異る秋に等しいと云つたのは、南国の人の常として殊更に秋を好むジヤン・モレアスである。
空は日毎に青く澄んで、よく花見帰りの午後《ひるすぎ》から突然暴風になるやうな気候の激変は全くなくなつた。日の光は次第に強くなつて赤味の多い柚色《ゆずいろ》の夕日はもう黄昏《たそがれ》も過ぎ去る頃かと思ふ時分まで、案外長く何時までも高い樫の梢の半面や、又は低く突出た楓の枝先などに残つて居る。或は何処から差込んで来るものとも知れず、植込《うゑごみ》の奥深い土の上にばら/\な斑点を描いて居る事もあつた。かゝる夕方に空を仰ぐと冬には決して見られない薄鼠色の鱗雲が名残の夕日に染められたまゝ動かず空一面に浮いてゐて、草の葉をも戦《そよ》がせない程な軽い風が食後に散歩する人をばいつか星の冴えそめる頃まで遠く郊外の方へと連れて行く。
何処《いづこ》を見ても若葉の緑は洪水のやうに漲り溢れて日の光に照される緑の色の強さは閉めた座敷の障子にまで反映するほどである。されば午後の縁先なぞに向ひ合つて話をする若い女の白い顔が電灯《でんき》の光に舞ふ舞姫《バレヱ》のやうに染め出される事がある。どんより曇つた日には緑の色は却て鮮かに澄渡つて、沈思につかれた人の神経には、軟い木の葉の緑の色からは一種云ひがたい優しい音響が発するやうな心持をさせる事さへあつた。
わが家《や》の古庭は非常に暗く狭くなつた。
繁つた木立は其枝を蔽ふ木の葉の重さに堪へぬやうな苦し気な悩しげな様子を見せるばかりか、圧迫の苦悩は目に見えぬ空気の中に漲りはじめる。西からとも東からとも殆ど方向の定まらぬ風が突然吹き下りて突然消えると、こんもりした暗い樹木は蛇の鱗を動すやうな気味悪い波動をば俯向いた木の葉の茂りから茂りへと伝へる。折々雨が降つて来ても、庭の地面は冬のやうに直様濡れはせぬ。濡れると却て土地の熱気を吐き出すやうに一体の気候を厭に蒸暑くさせる。伸び切つた若葉の尖つた葉末から滴りもせずに留つて居る雨の雫が、曇りながらも何処か知らパツと明い空の光で宝石のやうに麗しく輝く。石に蒸す青苔にも樹の根元の雑草にも小さな花が咲いて、植込の蔭には雨を避《よ》ける蚊の群が雨の糸と同じやうに細かく動く。
雲が流れて強い日光が照り初めると直ぐに苺が熟した。枇杷の実が次第に色付いて、無花果《いちぢく》の葉裏にはもう鳩の卵ほどの実がなつて居た。日当の悪い木立の奥に青白い紫陽花《あぢさゐ》が気味わるく咲きかけるばかりで、最早や庭中何処を見ても花と云ふものは一つもない。青かつた木葉《このは》の今は恐しく黒ずんで来たのが不快に見えてならぬ。古庭はます/\暗くなつて行くばかりである。
或日の夕方近所の子供が裏庭の垣根を破《こは》して、長い竹竿で梅の実を叩き落して逃げて行つた。別に小消化なものを食べたと云ふのでもないのに、突然夜中に腹痛を覚え自分はふいと眼をさました事がある。其の時|戸外《おもて》には余程《よほど》前から雨が降つてゐたと見えて、点滴の響のみか、夜風が屋根の上にと梢から払ひ落すまばら[#「まばら」に傍点]な雫の音をも耳にした。梅雨《ばいう》はこんな風に何時から降出したともなく降り出して何時止むとも知らず引き続く……
家中《いへぢゆう》の障子を悉く明け放し空の青さと木葉《このは》の緑を眺めながら午後《ひるすぎ》の暑さに草苺や桜の実を貪つた頃には、風に動く木の葉の乾いた響が殊更に晴れた
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