していたが、その得意先《とくいさき》の一軒で橋場《はしば》の妾宅《しょうたく》にいる御新造《ごしんぞ》がお糸の姿を見て是非|娘分《むすめぶん》にして行末《ゆくすえ》は立派な芸者にしたてたいといい出した事からである。御新造の実家は葭町《よしちょう》で幅のきく芸者家《げいしゃや》であった。しかしその頃のお糸の家《うち》はさほどに困ってもいなかったし、第一に可愛い盛《さかり》の子供を手放すのが辛《つら》かったので、親の手元でせいぜい芸を仕込ます事になった。その後《ご》父親が死んだ折には差当《さしあた》り頼りのない母親は橋場の御新造の世話で今の煎餅屋《せんべいや》を出したような関係もあり、万事が金銭上の義理ばかりでなくて相方《そうほう》の好意から自然とお糸は葭町へ行くように誰《た》れが強《し》いるともなく決《きま》っていたのである。百も承知しているこんな事情を長吉はお糸の口からきくために質問したのでない。お糸がどうせ行かねばならぬものなら、もう少し悲しく自分のために別《わかれ》を惜しむような調子を見せてもらいたいと思ったからだ。長吉は自分とお糸の間にはいつの間《ま》にか互《たがい》に疎通しない
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