とも底の底まで明《あきら》かに推察される。若い頃の自分には親《おや》代々《だいだい》の薄暗い質屋の店先に坐って麗《うらら》かな春の日を外《よそ》に働きくらすのが、いかに辛くいかに情《なさけ》なかったであろう。陰気な燈火《ともしび》の下で大福帳《だいふくちょう》へ出入《でいり》の金高《きんだか》を書き入れるよりも、川添いの明《あかる》い二階家で洒落本《しゃれほん》を読む方がいかに面白かったであろう。長吉は髯《ひげ》を生《はや》した堅苦しい勤め人《にん》などになるよりも、自分の好きな遊芸で世を渡りたいという。それも一生、これも一生である。しかし蘿月は今よんどころなく意見役の地位に立つ限り、そこまでに自己の感想を暴露《ばくろ》してしまうわけには行かないので、その母親に対したと同じような、その場かぎりの気安めをいって置くより仕様がなかった。
長吉は何処《いずこ》も同じような貧しい本所《ほんじょ》の街から街をばてくてく歩いた。近道を取って一直線に今戸《いまど》の家《うち》へ帰ろうと思うのでもない。何処《どこ》へか廻り道して遊んで帰ろうと考えるのでもない。長吉は全く絶望してしまった。長吉は役者になりたい自分の主意を通すには、同情の深い小梅《こうめ》の伯父さんに頼るより外《ほか》に道がない。伯父さんはきっと自分を助けてくれるに違いないと予期していたが、その希望は全く自分を欺《あざむ》いた。伯父は母親のように正面から烈《はげ》しく反対を称《とな》えはしなかったけれど、聞いて極楽見て地獄の譬《たとえ》を引き、劇道《げきどう》の成功の困難、舞台の生活の苦痛、芸人社会の交際の煩瑣《はんさ》な事なぞを長々と語った後《のち》、母親の心をも推察してやるようにと、伯父の忠告を待たずともよく解《わか》っている事を述べつづけたのであった。長吉は人間というものは年を取ると、若い時分に経験した若いものしか知らない煩悶《はんもん》不安をばけろり[#「けろり」に傍点]と忘れてしまって、次の時代に生れて来る若いものの身の上を極めて無頓着《むとんちゃく》に訓戒批評する事のできる便利な性質を持っているものだ、年を取ったものと若いものの間には到底一致されない懸隔《けんかく》のある事をつくづく感じた。
何処《どこ》まで歩いて行っても道は狭くて土が黒く湿っていて、大方は路地《ろじ》のように行き止りかと危《あやぶ》まれるほど曲っている。苔《こけ》の生えた鱗葺《こけらぶ》きの屋根、腐った土台、傾いた柱、汚れた板目《はめ》、干してある襤褸《ぼろ》や襁褓《おしめ》や、並べてある駄菓子や荒物《あらもの》など、陰鬱《いんうつ》な小家《こいえ》は不規則に限りもなく引きつづいて、その間に時々驚くほど大きな門構《もんがまえ》の見えるのは尽《ことごと》く製造場であった。瓦《かわら》屋根の高く聳《そび》えているのは古寺《ふるでら》であった。古寺は大概荒れ果てて、破れた塀から裏手の乱塔場《らんとうば》がすっかり見える。束《たば》になって倒れた卒塔婆《そとば》と共に青苔《あおごけ》の斑点《しみ》に蔽《おお》われた墓石《はかいし》は、岸という限界さえ崩《くず》れてしまった水溜《みずたま》りのような古池の中へ、幾個《いくつ》となくのめり込んでいる。無論新しい手向《たむけ》の花なぞは一つも見えない。古池には早くも昼中《ひるなか》に蛙《かわず》の声が聞えて、去年のままなる枯草は水にひたされて腐《くさ》っている。
長吉はふと近所の家の表札に中郷竹町《なかのごうたけちょう》と書いた町の名を読んだ。そして直様《すぐさま》、この頃《ごろ》に愛読した為永春水《ためながしゅんすい》の『梅暦《うめごよみ》』を思出した。ああ、薄命なあの恋人たちはこんな気味のわるい湿地《しっち》の街に住んでいたのか。見れば物語の挿絵《さしえ》に似た竹垣の家もある。垣根の竹は枯れきってその根元は虫に喰われて押せば倒れそうに思われる。潜門《くぐりもん》の板屋根には痩《や》せた柳が辛《から》くも若芽の緑をつけた枝を垂《たら》している。冬の昼過ぎ窃《ひそ》かに米八《よねはち》が病気の丹次郎《たんじろう》をおとずれたのもかかる佗住居《わびずまい》の戸口《とぐち》であったろう。半次郎《はんじろう》が雨の夜《よ》の怪談に始めてお糸《いと》の手を取ったのもやはりかかる家の一間《ひとま》であったろう。長吉は何ともいえぬ恍惚《こうこつ》と悲哀とを感じた。あの甘くして柔かく、忽《たちま》ちにして冷淡な無頓着《むとんちゃく》な運命の手に弄《もてあそ》ばれたい、という止《や》みがたい空想に駆られた。空想の翼のひろがるだけ、春の青空が以前よりも青く広く目に映じる。遠くの方から飴売《あめうり》の朝鮮笛《ちょうせんぶえ》が響き出した。笛の音《ね》は思いがけない処で、妙な
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